湯川 直光(ゆかわ なおみつ)は、戦国時代武将畠山氏の家臣。湯川氏12代当主。紀伊国亀山城[1]11代城主。河内国守護代

 
湯川直光
Yukawa Naomitsu.jpg
湯川直光像
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄5年5月19日1562年6月20日
墓所 法林寺
官位 民部少輔
幕府 室町幕府 河内守護代
主君 畠山高政
氏族 湯川氏清和源氏武田氏流)
父母 父:湯川政春
兄弟 直光帯刀宗慶春房安重
直春信春弘春春信清勝
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出自編集

湯川氏は甲斐源氏の流れを組み、熊野街道の要衝であった道湯川(現・和歌山県田辺市中辺路町道湯川)を領したことに始まり、南北朝時代湯川光春牟婁郡から日高郡にかけて広大な勢力を築いて亀山城を築城した。

略歴編集

湯川衆の頭目・湯川政春の長男として誕生。

直光は当時の交通の要衝であった小松原館[2]を築城して平時の居館としたという[3]

紀伊続風土記』によると、享禄元年(1528年)、摂津国江口の戦い三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺証如の助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂[4]を建立し、次男・信春を出家させて住職としたという。

元来、河内と紀伊は畠山氏の領国であったが、永禄元年(1558年)、河内から守護・畠山高政安見宗房と対立し紀伊に下向してきたため直光は迎え入れ、翌永禄2年(1559年)に三好長慶と湯川氏の尽力により河内に返り咲いた高政は、この功を高く評価し直光に奉公衆である「畠山中務少輔」の家督を与えた[5]。ところが、永禄3年(1560年)に高政は宗房を復帰させ、これが長慶の河内侵攻を招き、高政・宗房は河内を奪われ紀伊へ亡命した。この際、直光は幕府から御内書を下されたため出陣を見合わせている[5] なお、安見宗房・湯川直光が河内守護代となったという話は「足利季世記」など後世の軍記に見られるのみにすぎず、事実ではない。

永禄5年(1562年)3月5日、河内奪還を狙う高政の命で湯川衆を率いて従軍し、河内で長慶の弟・実休が率いる三好軍を撃破した(久米田の戦い)。以前幕府によって参陣を停止されていた直光が反三好に協力したのは、三好氏に所領を押領されていた[5]ためとも言われる。5月19日の教興寺の戦いでは三好長逸らの軍勢を根来衆と共に迎撃していたが、長慶の子・義興の軍勢が参加したことで劣勢となり戦死した。

跡は長男・直春が継いだ[6]

脚注編集

  1. ^ 現・和歌山県御坊市湯川町丸山
  2. ^ 現・和歌山県立紀央館高等学校湯川神社
  3. ^ 和歌山県高等学校社会科研究協会編 「紀中の海岸を行く」 『和歌山県の歴史散歩』 山川出版社〈歴史散歩30〉、2009年、188頁。ISBN 978-4-634-24630-0 
  4. ^ 現・浄土真宗本願寺日高別院
  5. ^ a b c 「尊経閣文庫文書」9月13日大館晴光宛湯川直光書状
  6. ^ 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社〈MC新書〉、2007年、214-225 , 239-242頁。

参考文献編集

  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。

関連項目編集