源九郎稲荷神社
源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)は、奈良県大和郡山市洞泉寺町にある神社。源九郎狐や綿帽子を買った狐の伝説で有名である。童謡『やまとの源九郎さん』に歌われている場所であり、地元では「源九郎さん」の呼び名で親しまれている。北向きの本殿に宇迦之御魂大神、源九郎稲荷大明神(源九郎狐)が祀られている。小さな稲荷であるが日本三大稲荷の一つに数えられ[1]、また近畿二大稲荷[2]や関西三大稲荷[3][4]に数えられることもある。
源九郎稲荷神社 | |
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所在地 | 奈良県大和郡山市洞泉寺町15 |
位置 | 北緯34度38分43.9秒 東経135度47分8秒 / 北緯34.645528度 東経135.78556度座標: 北緯34度38分43.9秒 東経135度47分8秒 / 北緯34.645528度 東経135.78556度 |
主祭神 |
宇迦之御魂神 源九郎稲荷大明神 |
創建 | 伝・天正13年(1585年) |
例祭 | 4月3日 |
五穀豊穣・商売繁盛の御利益があり、4月の第一日曜日に、白狐面をつけた子供行列が練り歩く『源九郎稲荷春季大祭』が行なわれる。
祭神
編集- 主祭神 - 宇迦之御魂神、源九郎稲荷大明神
歴史
編集源義経が兄頼朝との戦に際し、義経は幾度もこの稲荷に助けられたことから、この稲荷に源九郎の名を贈ったという伝説が、社名の由来となっている。
天正13年(1585年)9月、翁の姿をした源九郎と名乗る白狐が大和国の長安寺村の宝譽という僧の前に現れ、茶枳尼天(稲荷)を郡山城の南に祀れば城の守護神になろうと告げた。宝譽は郡山城主の豊臣秀長にこのことを告げると、秀長は城の南に洞泉寺を建立して宝譽を住持とし茶枳尼天を祀らせ、自らも洞泉寺の境内に源九郎稲荷大明神を祀らせ、城の鎮守としたと伝えられている。また、遠く吉野川のほとりにあった源九郎狐の社をこの地に移したともいう。
伝説
編集- 忠臣狐伝説
- 源義経が兄頼朝に追われ吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が静御前を守り通した。義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は親の皮で出来た御前の鼓であったが、それを知った義経は自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許した。
- 妖刀子狐丸伝説
- 菅田明神の境内に住む小狐が、近くの淵で村人を苦しめている大蛇を源九郎狐の加勢を得て退治した。大蛇の尾から宝剣が見つかると村人はこの宝剣を「小狐丸」と名づけ、天理の石上神宮へ奉納した。
- 元和の鎮火伝説
- 元和元年(1615年)、豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際城下も焼け、その中心へと火が迫ってきたのを見た洞泉寺住職の天誉和尚が源九郎狐に祈願をしたところ、突然大雨が降り大火を免れた。
- 綿帽子を買った狐伝説
- 大和郡山の柳三丁目に帽子屋があり、ある冬の夜婦人が綿帽子を三つ買いに来た。代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいといわれたが、神社では誰も心当たりがないという。主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった三匹の小狐が現れた。
境内
編集交通アクセス
編集脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集関連情報
編集源九郎稲荷神社の関連情報として、次のサイトの注意点を指摘する。
同サイトは源九郎稲荷神社が管理するものではない(源九郎稲荷神社には公式ホームページや宮司のブログが存在する)。そして、同サイトには内部コンテンツとして次のページが存在する。
一方、大阪府松原市にも源九郎狐の伝承が伝わっており、松原市のサイト内「まつばらの民話」中に次のページが存在する。
同市のサイトを見る限り、“第60話 源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり”は「まつばらの民話」内のコンテンツであり、その著作権は大阪府文化財愛護推進委員 加藤 孜子(あつこ)氏もしくは松原市に帰属していると判断できる。
しかしながら“源九郎狐の死と野施行のはじまり”は、その内容が“第60話 源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり”に酷似している。そこに転載等の表記はなく、松原市の“著作権・免責事項・リンク・個人情報の取り扱いについて”のルールを逸脱している。「源九郎稲荷神社〜復興への道〜」は、以上の点に注意を要するサイトである。
なお、現在の源九郎稲荷神社が所在する大和郡山市には、スパイの疑惑をかけられた源九郎狐の終焉の話が伝わっている(【子供のための大和の伝説 仲川明 奈良新聞社】・【郷土の伝説 駒井保夫】)。その地ではその地の伝承を伝えるべきであり、大和郡山市の源九郎稲荷神社が伝えるべきは、「まつばらの民話」ではなく大和郡山の伝承であろう。