瀬戸博晴
瀬戸 博晴(せと ひろはる、1956年11月6日 - )は、将棋棋士。2000年、引退。二上達也九段門下。棋士番号は140。東京都新宿区出身。
瀬戸博晴 七段 | |
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名前 | 瀬戸博晴 |
生年月日 | 1956年11月6日(66歳) |
プロ入り年月日 | 1979年10月18日(22歳) |
引退年月日 | 2000年 | 6月 8日(43歳)
棋士番号 | 140 |
出身地 | 東京都新宿区 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 二上達也九段 |
段位 | 七段 |
棋士DB | 瀬戸博晴 |
戦績 | |
竜王戦最高クラス | 6組 |
順位戦最高クラス | C級2組(10期) |
2015年3月20日現在 |
棋歴編集
4歳の頃、兄から教えられ、将棋と出会う[1]。そして、中学1年のとき兄に将棋道場に連れていかれたのがきっかけで将棋を好きになり、2年後にはアマチュア四段の腕前となる[2]。
高校2年・16歳のとき、5級で奨励会に入会。初段昇段までは1年と半年というスピード出世。その間、振り飛車穴熊戦法を多用したため「穴熊の瀬戸」と呼ばれる[2]。しかし、プロ入りに一歩手前の三段で長らく停滞する。
転機のきっかけとなったのは、師匠の二上達也から送られた年賀状に「穴熊の限界を知ること」と書かれていたことだった[2]。一転して居飛車の矢倉を多用するようになってから調子が上がり、1979年10月18日、三段昇段から3年4か月で、ついに四段昇段を果たす。
1985年度、公式戦で師匠の二上と弟弟子の羽生善治と当たり、いずれも敗北する。しかし、同年度中に行われた第48期(1986年度前期)棋聖戦の一次予選・二次予選を突破し、本戦に進出。本戦では1回戦で中原誠名人に敗れる。なお、半年後の第49期棋聖戦一次予選1回戦では、羽生に勝っている。
1989年度、全棋士参加の大型トーナメント棋戦である第8回「全日本プロトーナメント」で、大内延介九段、中原誠棋聖・王座らに勝ち、5回戦に進出。
順位戦では参加8期目(1987年度・第46期C級2組順位戦)から10期目にかけて3期連続で降級点を喫し、C級2組から陥落。10年後、1999年度を最後に現役を引退した。但し、引退が確定した時点で第13期6組竜王戦の昇級者決定戦への参加資格が残っていたため引退日以降もこれに参戦し、2回戦で鈴木輝彦に、3回戦で菊地常夫にそれぞれ勝利、4回戦で北浜健介に敗れ、全ての公式戦を消化した。
棋風編集
プロ入り後、再び穴熊を多用し、相手が居飛車党である場合は必ずと言っていいほど振り飛車穴熊戦法を用いた。また居飛車穴熊についても田中寅彦と共に先駆者として知られる。
人物編集
- 2012年5月25日放送の建もの探訪で、新宿区にある自宅が紹介されている。鉄筋コンクリート造の4階建てであり、半地下にある部屋は将棋の研究スペースとなっている。
- 家族構成は妻と長男、長女。ペットは柴犬と猫、ジュウシマツである[3]。
- 特技は卓球で、その腕前はプロ級とも言われる[2]。
- 羽生善治の兄弟子で、唯一の同門棋士。
- 若手時代はひたすら実戦で、特に街道場めぐりなどの武者修行で鍛え上げていた。
- 引退後は民間企業に勤務しつつ、アマチュアへの普及活動(指導対局など)に尽力している。
- 1995年1月24日に行われた安恵照剛との対局で、後手番にも関わらず初手を着手し、相手が1手も指さないまま勝負が決まるという、非常に珍しい反則負けを喫してしまった[4][5]。
昇段履歴編集
主な成績編集
通算成績 174勝301敗
公式戦本戦出場歴編集
- 第15回(1981年度)早指し将棋選手権…1回戦で有吉道夫に敗れる。
- 第48期(1985年度)棋聖戦…上述
- 第41回(1991年度)NHK杯…予選で後に十八世名人の資格を得る森内俊之に勝利、本戦では1回戦で淡路仁茂に敗れる。