無準師範
1177-1249, 中国・南宋時代の臨済宗の禅僧、書家、画家。
無準師範(ぶしゅんしばん[1]あるいは、ぶじゅんしばん[2])は、中国の南宋の臨済宗の僧。俗姓は雍。法諱は師範。号は無準。剣州梓潼県の出身。宋代禅林中の巨匠で理宗から仏鑑禅師を諡された。
無準師範 | |
---|---|
淳熙4年 - 淳祐9年3月18日 (1177年 - 1249年5月2日) | |
『無準師範像』 | |
諡号 | 仏鑑禅師 |
生地 | 剣州梓潼県 |
宗派 | 臨済宗楊岐派 |
寺院 | 径山寺 |
師 | 破庵祖先 |
弟子 | 円爾、兀庵普寧、西巌了恵、別山祖智、断橋妙倫、雪巌祖欽、無学祖元、牧谿 |
著作 | 仏鑑禅師語録 |
業績
編集破庵祖先の法嗣、門下に兀庵普寧・西巌了恵・別山祖智・断橋妙倫(以上、四哲と称す)・雪巌祖欽・無学祖元などがおり、日本僧では円爾がいる。中国五山の第一たる径山万寿寺の第34世に住し、円爾をはじめとして日本から無準に参じた僧は多い。日本禅林との関係は最も深く、最も強い影響を与えている。
無準は書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えており、その書は張即之風で雄渾な大字で知られる。また『与円爾尺牘』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。無準は張即之と交渉をもったため、その弟子たちは好んで張即之の書を学んだ。
また無準は絵画にも非常に優れていたらしく、その弟子の牧谿は禅林が生んだ最大の画家で、その作品は日本にもたらされている。無準の著として『仏鑑禅師語録』が知られる[3][4][5][6][7][8][9][10]。
墨跡
編集- 与円爾尺牘
- 『与円爾尺牘』(えんににあたう せきとく)は、無準が円爾に書いた謝礼の尺牘。円爾が帰朝した翌年の淳祐2年/仁治3年(1242年)の夏、径山の寺塔が火事になり、円爾はその復興のために博多から板1,000枚を径山に送った。それに対する無準の謝礼が本状である。そのため俗に板渡しの墨跡と呼ばれ珍重されている。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(尺牘))[9]。
脚注
編集参考文献
編集- 二玄社編集部編『書道辞典 増補版』(二玄社、初版2010年)ISBN 978-4-544-12008-0
- 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明『中国書人名鑑』(二玄社、初版2007年)ISBN 978-4-544-01078-7
- 木村卜堂『日本と中国の書史』(日本書作家協会、初版1971年)
- 伊吹敦『禅の歴史』(法藏館、新版2006年(初版2001年))ISBN 978-4-8318-5632-6
- 福嶋俊翁「『印可状』無準師範」(「中国11 宋II」『書道全集 第16巻』平凡社、新版1971年(初版1967年))
- 中西慶爾編『中国書道辞典』(木耳社、初版1981年)
外部リンク
編集- 尺牘(板渡しの墨蹟) - e国宝(国立文化財機構)
- 絹本著色無準師範像 - 国指定文化財等データベース(文化庁)