「アレシアの戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yakouhai (会話 | 投稿記録)
初稿。古代ローマの包囲戦。en:Battle of Alesia20067月19日16:06版をベースに加筆。
(相違点なし)

2006年8月3日 (木) 10:40時点における版


アレシアの戦い(Battle of Alesia)、あるいはアレシア包囲戦(Siege of Alesia)は、紀元前52年の8月から10月にかけてガリア(現在のフランス)のアレシアで行われた戦いガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、ウェルキンゲトリクス率いるガリア軍が戦い、ローマ軍が勝利した。古代ローマにおける包囲戦の中で、もっとも大規模なものの一つであった

アレシアの戦い
ファイル:Caesar campaigns gaul.gif
ガリア戦争要図
戦争ガリア戦争
年月日紀元前52年8月 - 10月
場所:アレシア
結果:ローマ軍の勝利
交戦勢力
ローマ ガリア
指導者・指揮官
ガイウス・ユリウス・カエサル ウェルキンゲトリクス
戦力
60,000 アレシア 80,000
解囲軍 250,000
損害
7,800 160,000 - 200,000

この戦いの結果、紀元前58年から6年にわたって続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。また、ガリアという巨大なパトロネージを手にしたカエサルは、そこから得られる莫大な資金、人材、資源を元に自らの立場を強化し、続く内乱を勝ち抜いて帝政への道を開いた。

背景

ガリア戦争

紀元前59年ガイウス・ユリウス・カエサル執政官を務めた。執政官を務めたものは、翌年の属州総督となることが慣行となっていたため、カエサルはイリュリアガリア・キサルピナアルプス以南のガリア)、ガリア・トランサルピナ(アルプス以北のガリア)を任地に選び、元老院はこれを承認した[1]。カエサルはプロコンスル(前執政官)として5年間のインペリウム(軍事指揮権)を委ねられた。

紀元前58年、現在のスイス一帯に居住していたヘルウェティー族が、アリオウィストゥス率いるゲルマン系のスエビ族に追われ、西方へ逃れるため属州ガリアの通行権を求めた。カエサルが要請を拒否したため、ヘルウェティー族は強引に属州ガリアを通過しようとした。ローマ軍は属州と友好部族の保護を名目にヘルウェティー族を攻撃し、これを契機にガリア戦争が開始された。同年中にヘルウェティー族を降伏させたローマ軍は、今度は彼らの保護を名目にスエビ族を攻撃した。ヴォージュの戦いでスエビ族を打ち破ったローマ軍は、ガリア・トランサルピナに橋頭堡を築くことに成功した。

ファイル:Hw-caesar.jpg
ガイウス・ユリウス・カエサル

この行動にガリア征服の意図を感じ取ったガリア人は、翌紀元前57年からローマ軍とその同盟者への攻撃を開始した。ガリア人のうちでは、現在のベルギー一帯に居住していたベルガエ族が最大勢力であり、他にもいくつかの有力部族が存在したが、彼らは結束して戦おうとしなかった。カエサルはこれにつけこみ、巧妙な外交によって部族間の対立を煽り、内部分裂を引き起こして確固撃破することに成功した。紀元前57年から紀元前55年の間に、カエサルはベルガエ族ネルウィ族ウェネティ族を破り、さらにブリテン島にまで渡った。これらの軍事的勝利は、カエサルに莫大な富と名声をもたらした。

紀元前54年、ガリア人はエブロネス族の族長アンビオリックスを中心として、ようやく結束の兆候を見せ始めた。アンビオリクスは、ローマ軍が冬営のために分散しているところを急襲し、クィントゥス・ティトゥス・サビヌス指揮下の1個軍団に壊滅的な打撃を与えた。この勝利にガリアは沸き立ち、その他のローマ軍冬営地もガリア人によって包囲された。ガリア・キサルピナにいたカエサルは、直属の2個軍団で友軍の救援に向かい、全ての包囲軍を打ち破ることに成功した。翌紀元前53年はカエサルの報復の年となった。カエサルは反抗した部族を徹底的に弾圧し、特に中心となったエブロネス族は完全に根絶された。

紀元前53年、三頭政治の一角であるマルクス・リキニウス・クラッススパルティア戦争中に戦死した。これによってカエサルとグナエウス・ポンペイウスの間の均衡は崩れ、ローマ中央政界におけるカエサルの地位は危うくなった。カエサルはポンペイウスとの関係を修復するため、急遽本国に帰還した[2]。このようにカエサルがガリアから離れている間を狙い、ガリア人は新たなリーダーを選出し、次なる段階へ戦争を進めた。

ウェルキンゲトリクス

 
ウェルキンゲトリクス

紀元前52年、現在のオーヴェルニュ一帯に居住していたアルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスがガリア王を宣言し、全部族に対して決起を呼びかけた。ウェルキンゲトリクスは結束を強めるため、各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。このようにしてガリアを糾合したウェルキンゲトリクスは、まずケナブム(現在のオルレアン)のローマ人を虐殺し、ローマに対して宣戦布告した。ローマ軍を熟知していたウェルキンゲトリクスは[3]、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦ゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さなかった。これによってローマ軍の兵站の破壊を狙ったのである。

このガリア総決起に対しカエサルは、紀元前54年の過ちを繰り返さぬよう、冬営中の10個軍団を素早く結集させた。焦土作戦によって兵站を敵地に頼ることが出来ない苦しい状況であったが、カエサルは攻撃を決意した。ローマ軍はまずケナブムを奪取し、次いでアウァリクム(現在のブールジュ)を目標に定めた。アウァリクムはビトゥリゲス族の中心都市で、全ガリアの中心に位置する戦略上の要衝であり、また焦土作戦の対象から外れていたため、兵站の策源としても申し分なかった[4]。4月までにローマ軍はアウァリクムを制圧、カエサルは見せしめのために住民と守備隊の40,000人を皆殺しにした。

兵站の問題が解決したローマ軍はより積極的な作戦行動に移った。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を与えて北部での作戦を委ね、自身は6個軍団を率いてアルウェルニ族の領地である南部を攻撃した。しかし、ウェルキンゲトリクスは粘り強く抵抗し、さらにゲルゴウィアの戦いでカエサルを破った。この予期せぬ敗北に、カエサルはガリア・ナルボネンシス(現在のプロヴァンス一帯)まで後退し、戦力を再編しようとした。撤退の途中でカエサルは、精強なガリア人騎兵に対抗するため、ゲルマン人騎兵を雇い入れた[5]

山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾し、ディジョン近辺で攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ。カエサルはこれを好機と見て包囲に移った。間もなくラビエヌスの軍団も合流し、包囲軍はローマ正規軍12個軍団と、ゲルマン人騎兵、クレタ人投石兵、ヌミディア人軽装歩兵等を合わせて約60,000人となり戦力的な不安は解消された。

アレシア包囲戦

包囲線構築

 
復元されたアレシア包囲線

アレシアは二本の川に挟まれた丘の上に作られた要害の都市だった。強襲をかけても損害を出すだけと見たカエサルは、包囲線を築いて敵の消耗を待つ作戦を選択した。ウェルキンゲトリクスのガリア軍80,000人とアレシアの本来の住民が包囲下にあり、それだけ兵糧の消耗も激しいと考えたのである。

アレシア包囲線についてはカエサルの『ガリア戦記』に極めて詳細に記されている。ローマ軍は、まず総延長18キロメートル、高さ4メートルの土塁を築き、アレシア全体を囲んだ。土塁は木材と石材で強化され、敵兵が取り付けないように逆茂木が植えられていた。土塁の手前には幅4.5メートル、深さ1.5メートルのを2列掘り、アレシア側の壕には川から引いた水を満たした。2列の壕の手前には、深さ1.5メートルの壕が5列掘られ、底には引き抜けないように根元を結び合わせた逆茂木を並べた。これは墓標(Cippi)と呼ばれた。墓標の手前には、深さ1メートルの穴を1メートル間隔で市松模様に8列掘り、底には先の尖った杭を埋め、穴の上は小枝や草でカモフラージュした。これは百合(Lilium)と呼ばれた。百合の手前には、両端に鉄製の鉤をつけた杭が大量に打ち込まれた。これは刺(Stimulos)と呼ばれた。刺の先からアレシアまではある程度の空白地帯を設け、その先に幅6メートルの壕を掘った。土塁内の各所には防御拠点となる監視所を23ヶ所、出撃拠点となる野営地を7ヶ所設け、包囲線のどこに攻撃が加えられても救援が送り出せるようにした。ローマ軍はおよそ3週間でこの大土木工事をやり遂げた。専門の工兵将校を置くほど陣地設営を重視したローマ軍だからこそ可能だったといえるだろう。

 
刺(Strimulos)の図解

ウェルキンゲトリクスは工事を妨害するために何度か騎兵を送り出したが、ゲルマン騎兵の奮戦によってことごとく撃退された。内側からの包囲線の突破は不可能と判断したウェルキンゲトリクスは、同盟部族へ解囲軍を要請する使者を派遣した。

第一の包囲線が完成すると、ローマ軍は今度は解囲軍の攻撃を防ぐため、外周部に同様の土塁、壕、墓標、百合、刺を設けた。外周部の土塁の総延長は21キロメートルに及んだ。こちらも内周部と同様に3週間ほどで完成した。これによってアレシアは二重の包囲線で完全に取り囲まれることとなった。工事が完成すると、カエサルはローマ軍60,000人の30日分の食料を運び込ませ、外との連絡を断たれても抵抗できるようにした。

包囲下にあるアレシアでは、人心の動揺、居住環境の悪化、食糧不足といったいくつかの深刻な問題が生じていた。ウェルキンゲトリクスは、口減らしのために戦闘に耐えられないアレシアの本来の住民を都市から追い出すことにした。都市から追い出された住民は、奴隷になるから助けて欲しいとローマ軍に懇願したが、カエサルはこれを無視した。このため、住民たちはアレシアと包囲線の間の空白地帯で飢え死にしていった。

攻防戦

 
アレシア包囲線と解囲軍の布陣。左上の円が包囲線の弱点。

9月末、歩兵250,000、騎兵8,000の解囲軍が到着、アレシアの南西に陣地を築いた。翌日、解囲軍は包囲線に対して強襲を仕掛け、これに合わせてウェルキンゲトリクスも出陣した。ローマ軍の防備は堅く、ガリア軍は日没まで攻撃を仕掛けたものの、包囲線に取り付くことすら出来ず、多大な損害を出して撤収した。

翌日、ガリア軍は南西から夜襲を仕掛けた。この試みはある程度の成功をおさめ、ガリア軍は土塁まで取り付くことに成功した。この騒動を察知したウェルキンゲトリクスも直ちに出陣し、再び内から包囲線の突破を試みた。これに対しカエサルは、マルクス・アントニウスガイウス・トレボニウスに騎兵を委ねて迎撃するよう命じた。アントニウスとトレボニウスは、まず包囲線の外に出撃し、しかる後土塁に取り付いている解囲軍の後方に回り込んだ。解囲軍は挟撃の危険を察知し、夜明けを待たずに撤収した。ウェルキンゲトリクスの軍もやはり包囲線を突破できず、アレシアに引き上げた。

この頃になると、ローマ軍も食料が欠乏し始め、苦しい状態になっていた。包囲下のアレシアはなお悪い状態だった。もはや時間的な余裕はなく、解囲軍は最後の攻撃を仕掛ける決意をした。ウェルキンゲトリクスの従兄弟ウェルカッシウェラウヌスは、ローマ軍の包囲線の弱点は北西にあると看破した(図の円で囲まれた地点)。この地点は、地形的制約から包囲線が途切れていたのである。この不備を補うため、カエサルはこの地に2個軍団を置いていた。

10月2日、ウェルカッシウェラウヌスは60,000の軍を率いて北西から攻撃を仕掛けた。同時に残りの解囲軍は南西から総攻撃を仕掛け、ローマ軍を引き付けた。さらに包囲下のウェルキンゲトリクスも出陣し、南西と北西の二手に分かれて突破を図った。この二点同時攻撃はローマ軍を動揺させた。ガリア軍の攻勢は順調に進み、北西の包囲線は崩壊の危機にさらされた。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに6個大隊を委ね、北西の防御に向かうよう命じた。急行したラビエヌスは、崩れかけていた戦線を立て直すことに成功したものの、依然としてウェルカッシウェラウヌスの攻勢は強力で、今にも突破されかねなかった。

カエサルはデキムス・ユニウス・ブルートゥスに騎兵6個大隊、カイウス・ファビウスに騎兵7個大隊を委ねて先に出撃させ、しかる後、自ら最後の予備を率いて出撃した。緋色のマントを身に着けた総司令官の姿が現れたのを見ると、これを討ち取るべくウェルカッシウェラウヌスは矛先を転じた。こうしてカエサルが敵を引き付けている間に、先行させていたブルートゥス、ファビウスの騎兵がガリア軍の後方を突き、さらにラビエヌスの軍も反撃に転じた。パニックに陥ったガリア軍は間もなく壊滅し、ウェルカッシウェラウヌスは捕虜となった。友軍の壊滅を目にした南西の解囲軍は意気阻喪して撤収し、ウェルキンゲトリクスもアレシアに引き上げざるをえなかった。こうして最後の解囲作戦も失敗した。

翌日、ウェルキンゲトリクスは全ての将兵を集め宣言した。

「この戦いは己の栄誉のためではなく、自由のための戦いだった。運命が私に敗北を与えたのならば、それに従うことにしよう。私を殺すか、あるいは生きたままローマ軍へ引き渡すか、諸君らが選択したまえ」

ガリア人はローマにウェルキンゲトリクスを引き渡すことを選んだ。ウェルキンゲトリクスは族長たちを率いてローマ軍の包囲線の前まで進み出た。族長たちの武器を集めたウェルキンゲトリクスは、自らの武器とともにローマ軍に差し出した。ガリアの王はローマの前に屈したのである[6]

ガリア軍と生き残ったアレシアの市民は全て捕虜となった。アルウェルニ族アエドゥイ族は全て奴隷として売られるか、あるいはカエサルの軍団に吸収された。その他のガリア人は、ローマの寛大さを見せつけるため解放された。

戦後と影響

ウェルキンゲトリクスの降伏は、実質的に全ガリアにおける抵抗の終焉を意味した。わずかながら抵抗を続ける部族もいたが、彼らは徹底的に弾圧され、紀元前51年には全ての部族がローマの支配下に置かれた。ガリアはローマの属州となり、ガリア・ルグドネシスガリア・ベルギカガリア・アクィタニアの3つの管区に分割された。これ以降、3世紀に反乱(ガリア帝国を参照)が起きるまで、ガリアは一度も反旗を翻すことはなかった。

カエサルはガリア征服の成功により、莫大な富と名声を手に入れた。元老院は、特別のはからいとして通常は5日間までと定められていた凱旋式を、20日間開くことを許可したが、カエサルはこれを断った。属州ガリア総督としてカエサルは自由に裁量を振るい、さらに実力を蓄えていったため、グナエウス・ポンペイウスら政敵は焦燥感に駆られた。紀元前49年、総督解任と本国召還を命じる元老院最終勧告をきっかけに、ローマ内乱が勃発した。カエサルはこの戦いを勝ち抜き、全ての政敵を追い落とした。この内乱においてカエサルの軍団を支えたのは、服属したガリア人の兵士であった。カエサルの権勢は絶頂に達し、紀元前46年に終身独裁官となり、その後の帝政の幕を開いたが、紀元前44年暗殺された。

カエサルの部下たちはまた異なった道を歩んだ。ティトゥス・ラビエヌスは、ガリア戦争後にポンペイウスの部下となった。その後のローマ内乱をカエサルの敵として戦い、紀元前45年のムンダの戦いで戦死した。ガイウス・トレボニウスは、ガリア戦争後もカエサルの下で忠実に働き、紀元前45年には執政官を務めた。カエサル暗殺後の紀元前43年に彼もまた暗殺された。マルクス・アントニウスは、ガリア戦争後のローマ内乱でさらに活躍し、カエサルの後継者と目されるようになった。カエサル暗殺後、もう一人の後継者候補のオクタウィアヌスと争い、アクティウムの戦いで敗れ、紀元前30年に自殺した。デキムス・ユニウス・ブルートゥスは、ガリア戦争後もカエサルの部下としてローマ内乱を戦った。しかし、やがてカエサルを共和政の破壊者とみなすようになり、彼の暗殺に加わった。その後も共和政を一貫して支持し、アントニウスとオクタウィアヌスの争いではオクタウィアヌスに付いたが、紀元前43年に戦死した。

ガリア王ウェルキンゲトリクスは、6年間の捕虜生活の後、内乱に勝利したカエサルがローマで行った凱旋式で処刑された。

19世紀、自由主義ナショナリズムの盛り上がりにつれて、ウェルキンゲトリクスはガリア(フランス)の自由と独立を求めた英雄として再評価されるようになった。同様にアンビオリックスベルギーの英雄として再評価されるようになった。

現代の考察

上記の数字は全てカエサルの『ガリア戦記』に基づいているが、少なくともガリア側に関する記述は無条件に信じることはできない。アレシアに80,000もの軍が収容できるとは考えにくいし、解囲軍250,000も明らかに多すぎる。これらはカエサルによる誇張だと考えられる。現代の歴史家は、おそらくアレシアのガリア軍が20,000から30,000、解囲軍は50,000から70,000、つまりローマ軍とほぼ同等であろうと考察している。

アレシアの位置は長年にわたって疑問の的だった。候補地としてはフランシュ=コンテのアレーズ(Alaise)、コート=ドールアリーズ=サント=レーヌの2ヶ所が上げられていた。1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、この問題を解決するための発掘資金を提供し、調査の結果、アリーズ=サント=レーヌでローマ軍の野営地跡を発見した。ナポレオン3世は、発掘された台座の上にウェルキンゲトリクスの彫像を築かせた。2004年に航空考古学の調査によって、包囲線の痕跡と思われるものが発見され、アリーズ=サント=レーヌこそアレシアであると結論付けられた。現在、同地にはアレシア包囲線を復元した建物が築かれている。

しかしながら、アリーズ=サント=レーヌはアレシアではないとする声も依然として存在する。周辺の地形がガリア戦記の記述と食い違うこと、80,000人を収容するには狭すぎること、などが主な反論である。もっとも、上記のようにカエサルの記述とはいえ全幅の信頼を置くことはできないということを忘れてはならない。

他の候補地としては、ジュラ山脈のショウ・ド・クロテネーが、ガリア戦記の記述に近い地形であるとされている。いまだ発掘調査も進んでいないため、今後の研究が求められる。

脚注

  1. ^ この時代、ガリア・キサルピナはすでに属州ガリアとしてローマ支配下にあったが、ガリア・トランサルピナはいまだローマの勢力が及んでいなかった。
  2. ^ カエサルはポンペイウスに姻戚関係を結ぶことを願い出たが、ポンペイウスはこれを拒否した。
  3. ^ アルウェルニ族はローマ軍の同盟部族としてガリア戦争を戦っていた。ウェルキンゲトリクスは親ローマの族長を殺害して新族長となった。
  4. ^ ウェルキンゲトリクスはアウァリクムも焼き払うつもりであったが、ビトゥリゲス族の「全ガリアで最も美しく、最も肥沃なこの町を焼かないでくれ」という懇願により取りやめられた。
  5. ^ ガリア戦記によれば、カエサルはゲルマン人を即戦力とするため、彼らの貧弱な乗騎とローマ騎兵の健康な乗騎を交換させた。
  6. ^ プルタルコスの記述はより劇的である。「ウェルキンゲトリクスは、最上の武具を身にまとい、飾った馬にまたがってアレシアを出た。たった一人でローマ軍の陣地へ入ったウェルキンゲトリクスは、着座するカエサルの周りを馬にまたがったままで悠々と一周した。しかる後、ウェルキンゲトリクスは馬から下り、全ての武具を脱ぎ捨て、カエサルの前に身を投げ出した」

参考資料

  • カエサル(著)、国原吉之助(訳)、『ガリア戦記』、講談社学術文庫
  • プルタルコス(著)、村川堅太郎(訳)、『プルタルコス英雄伝』、ちくま学芸文庫
  • エイドリアン・ゴールズワーシー(著)、池田裕、古畑正富(共訳)、『古代ローマ軍団大百科』、東洋書林
  • エイドリアン・ゴールズワーシー(著)、遠藤利国(訳)、『図説 古代ローマの戦い』、東洋書林
  • 有坂純(著)、『世界戦史』、学研M文庫
  • 吉村忠典(著)、『世界の戦争 2 ローマ人の戦争』、講談社

外部リンク