マイケル・ゴードン (映画監督)

マイケル・ゴードン(Michael Gordon、出生名:アーヴィング・クニン・ゴードン (Irving Kunin Gordon)、1909年9月6日 - 1993年4月29日)は、アメリカ合衆国の舞台俳優演出家映画監督

マイケル・ゴードン
Michael Gordon
生誕 Irving Kunin Gordon[1]
(1909-09-06) 1909年9月6日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 メリーランド州ボルティモア
死没 1993年4月29日(1993-04-29)(83歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州Century City
配偶者 Elizabeth Cohn
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経歴 編集

ゴードンは、メリーランド州ボルティモアに生まれ、中流階級ユダヤ人コミュニティの中で育った[2]。ゴードンはグループ・シアター (ニューヨーク)英語版の一員であり(1935年 - 1940年)、マッカーシズムの時代に共産主義者としてブラックリストに載せられていた[3]。ゴードンは後に、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の演劇学科の教員となった。ゴードンはコネチカット州ニコルズ (コネチカット州)英語版パイン・ブルック・カントリー・クラブ英語版で夏を過ごしていた。パインブルックは、グループ・シアターの夏の拠点として知られるようになっていった。同じように当地で夏を過ごしていた芸術家たちには、エリア・カザンハリー・モーガンジョン・ガーフィールドリー・J・コッブウィル・ギアクリフォード・オデッツハワード・ダ・シルヴァ英語版アーウィン・ショーらがいた[4][5]

ゴードンは、ブラックリストの乗っていたため、ハリウッドにおける経歴は、ふたつの時期に分かれている。1940年、ゴードンはダイアログ・ディレクターとして映画の仕事を始め、やがてB級映画の監督となった。1940年代後半、ゴードンは、アクション映画作品だけでなくメロドラマフィルム・ノワールも手がけることで、頭角を現した。1950年に監督した映画『シラノ・ド・ベルジュラック (Cyrano de Bergerac)』では、ホセ・フェラー第23回アカデミー賞主演男優賞を獲得した。ブラックリストに載った後の一時期、ゴードンは作品を監督することができなくなったが、1950年代末に映画プロデューサーロス・ハンター (映画プロデューサー)によって、ドリス・デイロック・ハドソンが主演する映画『夜を楽しく』の監督としてハリウッドに呼び戻された。以降、ゴードンの第二の活動期には、もっぱら気楽なコメディ映画作品が生み出された。

ゴードンは、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家、プロデューサ—、編集者であるジョゼフ・ゴードン=レヴィットの母方の祖父にあたる[6]

監督作品 編集

脚注 編集

  1. ^ http://dvd-copy.com/people/Michael-Gordon/0330456/bio.htm
  2. ^ Davis, Ronald L. (2005). Just making movies: company directors on the studio system. Univ. Press of Mississippi. pp. 104. ISBN 1-57806-691-3 
  3. ^ Honan, William H. (1993年5月4日). “Michael Gordon, Comic Director On Stage and Screen, Dies at 83”. The New York Times. http://www.nytimes.com/1993/05/04/obituaries/michael-gordon-comic-director-on-stage-and-screen-dies-at-83.html 2010年5月12日閲覧。 
  4. ^ Pinewood Lake website retrieved on 2010-09-10
  5. ^ Images of America, Trumbull Historical Society, 1997, p. 123
  6. ^ Lidz, Frank (2007年3月25日). “From Alien Boy to Growing Star in the Indie Universe”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2007/03/25/movies/25lidz.html?_r=1&ref=movies&oref=slogin 2007年3月26日閲覧。 

外部リンク 編集