井上道砂因碩
江戸時代の囲碁棋士
井上道砂因碩(いのうえ どうさいんせき、1649年(慶安2年) - 1697年(元禄10年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家三世井上因碩(相続時は二世、後に家系書き換えで三世)、石見国(現・島根県大田市)出身、本因坊道悦門下、上手。
本因坊道策の弟で、本姓山崎、幼名は千松。退隠後は休山を号す。ただし本因坊家に残された文書・石井恕信の著「本因坊家伝」では道策の甥と記述されている[1]。
二世井上玄覚因碩が跡目を定めないまま1673年(延宝元年)1月に没した後、本因坊道悦が自身の門下である道砂の跡式による相続願いを12月に寺社奉行に提出し、これが認められて家督を継ぐ。翌年3月に井上因碩の襲名を願い出て認められた。これ以降、井上家当主は代々因碩を名乗る様になる。また井上家は50石10人扶持であったが、この時に25石に減ぜられ、後にまた50石に戻った。
御城碁には1674年(延宝2年)に初出仕、1695年(元禄8年)まで13局を勤める。1677年(延宝5年)に道策が本因坊家を継ぐと同時に名人碁所に就いた際、上手(七段)の手合割に定められる。1690年(元禄3年)に道策門下の桑原道節(井上道節因碩)を跡目に定めた。ただし、道節は道砂より年上である。
御城碁成績 編集
参考文献 編集
- 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
脚注 編集
- ^ 『徳川時代の囲碁界を知る 「本因坊家伝」と「碁所旧記」を読み解く』秋田昇一著、誠文堂新光社、2019年、P.19/P.26