松平 信一(まつだいら のぶかず)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名藤井松平家始祖・松平利長の長男。官位従四位下伊豆守。藤井松平家2代当主。松平清康の従兄弟。

 
松平信一
松平信一
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文8年(1539年
死没 寛永元年8月29日1624年7月16日
別名 通称:勘四郎
戒名 浄真院弁誉道雄専水大居士
官位 従四位下伊豆守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
常陸土浦藩
氏族 藤井松平家
父母 父:松平利長
継室:松平好景
久清大久保康忠室、石川某室、
松平信吉正室、小栗忠政後室
養子:信吉
テンプレートを表示

生涯 編集

早くから徳川家康に仕え、永禄元年(1558年)の尾張国の北東部に在った品野城への夜襲戦に加わる。ここで織田方の将士らを50余名を討ち取り、三河・尾張両国にその名を轟かせた。永禄6年(1563年)、三河一向一揆鎮圧戦でも活躍。このときの働きを、家康から賞されている。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛する際に援軍の将として派遣され、9月12日観音寺城の戦いに代表される対六角氏戦で、箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たす戦功を挙げ、信長からも賞された。

天正3年(1575年)、遠江国諏訪原の戦い長篠の戦い)に参戦[1]

天正18年(1590年)、家康の関東国替えにより、下総国布川に5000石を与えられる。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは江戸崎にて佐竹義宣の動向に備えた。その戦功により戦後、常陸国土浦藩の初代藩主となり、3万5000石の所領を与えられた。嫡男久清が既に没していたため、慶長9年(1604年)、桜井松平家から信吉を養子に迎えて家督を譲った。

寛永元年(1624年)、信吉の封地の丹波国篠山城で死去した。

逸話 編集

  • 永禄6年の一向宗蜂起の時、敵の鉄砲によって左股を撃たれて倒れ、これを見た敵が誇言したところ、起き上がって進んで来て、悪口(あっこう)を言い放ち、これを聞いた敵が引きしりぞいたと『寛永諸家系図伝』に記述されている。

系譜 編集

父母

継室

子女

養子

脚注 編集

  1. ^ 寛永諸家系図伝』の松平康安の記述に、「康安は、松平伊豆守(信一)に属して、足軽を遣わし、鉄砲を放ちて挑み、戦う」と記述がある。