王 瑚(おう こ、中国語: 王瑚; 拼音: Wáng Hú; ウェード式: Wang Hu)は、末・中華民国の政治家。禹功。号は鉄珊

王瑚
プロフィール
出生: 1865年同治4年)
死去: 1933年民国22年)4月25日
中華民国の旗 中華民国北平市
出身地: 直隷省定州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 王瑚
簡体字 王瑚
拼音 Wáng Hú
ラテン字 Wang Hu
和名表記: おう こ
発音転記: ワン フー
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事績 編集

清末の活動 編集

当初、保定蓮池書院で学ぶ。1888年光緒14年)に戊子科挙人1894年(光緒24年)に甲午科進士となり、翰林院庶吉士を授かった。その翌年以降、四川省各県で知県を歴任している。1907年(光緒33年)、日本へ農務視察に赴き、帰国後は保定で農務学堂を創設した。[1][2]

まもなく岑春煊の招聘に応じ、四川営務処総弁に任ぜられる。さらに両広総督に任ぜられた岑に随従し、王瑚は広西省柳州知府、広東省欽廉兵備堂を歴任した。しかし王は兵事に疎く、革命派の蜂起を鎮圧できずにこれら両職から罷免されている。1909年宣統元年)、河南省の新建陸軍第29混成協統に任ぜられた。まもなく東三省総督錫良に招聘され、東三省巡警局総弁、吉林東北路(伊蘭)兵備道を歴任している。[1][2]

民国での活動 編集

中華民国成立後の1913年民国2年)、王瑚は直隷省雄県知県に任ぜられ、同年10月、湖南省民政長署理を務め、翌年5月、粛政庁粛正史となる。同年、湖南巡按使(民政長を改組)に任ぜられたが、実際には就任しなかった。1916年(民国5年)、総統府諮議官に任ぜられたが、張勲復辟の後に辞任している。1918年(民国7年)10月、陝甘禁煙専使に任ぜられた。[3]

安直戦争後の同年8月に京兆尹北京市長に相当)となったが、わずか1か月で江蘇省省長に移っている。1922年(民国11年)1月、呉佩孚らと連名で梁士詒内閣の総辞職を求める公電を打った。同年6月、王瑚は山東省省長に任命されたが、3か月で辞任した。[4]この頃、馮玉祥の招請に応じ、『春秋左氏伝』や『易経』などの古典の講義を行っている。1924年(民国13年)、包寧鉄路督弁となり、1929年1月、黄河水利委員会副委員長となった。1932年春、私立輔仁大学国文系教授となる。1933年(民国22年)4月25日、北平市にて病没。享年69。[1][2]

編集

  1. ^ a b c 徐主編(2007)、50頁。
  2. ^ a b c 華夏経緯網。
  3. ^ 以上、徐主編(2007)、50頁による。華夏経緯網によると、1920年(民国9年)、甘粛禁煙勘察員となったが、まもなく湖南省賑務督弁に転じた、としている。
  4. ^ 劉ほか編(1995)、225頁による。徐主編(2007)、50頁は、実際には就任しなかった(「未就」)としている。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「王瑚」華夏人物庫-現代人物(華夏経緯網)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
王達
京兆尹
1920年8月 - 9月
次代
孫振家