田中長一郎

日本の経営者

田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 1969年)は、日本近代製鉄の礎を築いた二代目・田中長兵衛の長男。父を補佐し家業である製鉄・鉱山業を支えた。

たなか ちょういちろう

田中 長一郎
生誕 1881年明治14年)11月19日
東京府
死没 1969年昭和44年)12月30日
東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学中途退学
職業 田中鉱山株式会社副社長
親戚 横山久太郎(叔父)
横山長次郎(従兄)
相羽有(娘婿)
家族 二代目・田中長兵衛(父)
田中長兵衛(祖父)
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生涯 編集

二代目長兵衛と母よきの間に長男として生まれる。弟・長五郎(1883年生)あり[1]慶應義塾に学び、1つ年上の従兄弟・横山長次郎[注 1]と共に1901年(明治34年)の慶應大学庭球部創立メンバーの一人[3][注 2]。同年秋に一橋大学と行った対抗戦の出場選手にも選ばれている。学業よりも実地を重んずる厳格な祖父(初代長兵衛)の方針に従い慶應義塾を退学[4]すると、1907年(明治40年)頃から佐渡生野足尾別子など全国の鉱山を視察。父・二代目長兵衛が経営する田中商店に入ると本店の調査課に属し、現場の作業能率改善や経営の合理化に尽力した。なお1907年(明治40年)には岩崎タカ(貴子、1886年生)と結婚し、翌年長男の長三が生まれている[5]

明治末期からの日本経済の慢性的な不況の影響を受け、1914年(大正3年)には釜石鉱山を三井財閥に売却する話が持ち上がる[注 3]。社長・長兵衛は東京帝大冶金科を出て釜石製鉄所で長く技師長を務め、その後は東京の田中本店に籍を置く香村小録[6]に三井との交渉役を任せた。

三井鉱山から牧田環[注 4]と西村小次郎が釜石を訪れ調査し、同じく田中家の所有である台湾金瓜石鉱山への視察が決まると、同年10月、三井の西村に香村や長一郎らも同行[注 5]し現地調査を行った。その後三井側でなかなか話がまとまらないところに第一次大戦激化による鉄価格高騰となり、釜石の業績も回復したためこの話は打ち切りとなった[8]

1917年(大正6年)4月、これまで田中長兵衛の個人商店であった組織が株式会社化。田中鉱山株式会社となり[注 6]、長一郎は副社長に就任した。翌1918年(大正7年)には後に八幡製鉄初代社長となる三鬼隆が入社し、長一郎の下で調査課に配属。その頃田中家が小笠原諸島で経営していたものの不振の事業があり、三鬼はその整理の任に当たって度々現地に出張した[9]。この時の手腕を買われた三鬼は次に長一郎と共に台湾金瓜石鉱山への出張監査を命じられ、現地の弁護士に丸投げだった銀行や電力会社との取引の見直しを行って社長・長兵衛を大いに喜ばせた[注 7]

1919年(大正8年)11月、足尾銅山同盟会の一隊が釜石に乗り込み労働争議が勃発。警官隊200名の他、軍までが出動する騒ぎとなる。1920年(大正9年)3月には戦後恐慌が起こり重工業は特に大きな打撃を受けた。以後長期的な不況に陥り、1922年(大正11年)には北海道の文珠炭鉱を三井鉱山に売却する[11]。1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生し東京の本店が焼失。さらには震災余波によって資金融通の道が尽く断たれ、会社は一千万円の負債を抱えて破綻寸前となった。従業員への給与も3ヶ月にわたり滞り、再び香村が三井との交渉に当たる。

この時期は社員の三鬼隆や森本太郎が日々大阪市場を駆けずり回って鋼材を売り捌き、その代金を副社長の長一郎がリュックに詰めて担いで運んだ。現金を背負った長一郎が仙人峠を越えて釜石へ着くと、従業員一同はその金でやっと食料を得るといった窮状であった[12]

1924年(大正13年)3月6日、釜石鉱山と製鉄所を三井が継承する契約が調印され、田中鉱山株式会社の解散が決定。その3日後に社長であった父・二代目長兵衛は危篤となりこの世を去った。後事を託された長一郎は42歳で家督を相続。この時期、自身で創業した参松合資会社を経営していた従兄の横山長次郎は田中家救済に手を差し伸べたとされる[13]

同年7月、三井鉱山の元で釜石鉱山株式会社が発足。会長に牧田環、常務取締役に西村小次郎(製鉄所所長を兼任)と香村小録、他一名[14]。長一郎は取締役に、釜石製鉄所の第3代所長を務めた横山虎雄は監査役に選任され、2人は1928年(昭和3年)7月までその職を務めた[15][注 8]。釜石鉱山及び製鉄所払い下げの打診があった明治17年から昭和3年まで、44年間にわたってこれと深く関わり家業とした田中家は、長一郎の取締役辞任をもってその経営から完全に離れることになる。

1925年(大正14年)11月、現地調査のため台湾に赴いていた長一郎は金瓜石鉱山の経営権を後宮信太郎に売却することで合意した。翌1926年(大正15年)11月、田中商店の時代から調査課で長一郎と共に働いた田中七之助(1888年生)が代表となり中島石材工業会社を設立[注 9]。長一郎は取締役に就任する。1935年(昭和10年)6月には横山長次郎が経営する参松製飴株式会社[注 10]で生産したブドウ糖や水飴の販売会社、株式会社三松商店[注 11]の取締役に就任[22][注 12]。晩年は大田区池上で暮らした[24]。1969年没。

家族・親族 編集

長一郎の祖父は明治政府が失敗・断念した日本最初の製鉄所を引き受けて成功させた初代・田中長兵衛。父はその釜石鉱山田中製鐵所を引き継いで発展させ、併せて台湾金瓜石などの鉱山運営も手がけた二代目長兵衛。叔父の横山久太郎は釜石田中製鐵所の初代所長であり三陸汽船の初代社長。その長男・長次郎は慶應義塾長を務めた小泉信吉の娘・勝を妻として後に参松工業を創設、日本で初めて酸糖化法によるブドウ糖生産の事業化に成功した。二代目長兵衛の姪・花子(妹・きちの四女)は横山久太郎の養女となり、花子の夫として婿養子に入った虎雄は六代・渋沢宗助の子で、渋沢栄一の伯父の曾孫。花子は虎雄との間に四男二女をもうけた。

長一郎は岩崎清春の四女・タカとの間に長三、長和、安子、なほ子、こう子の二男三女を授かる。長女・安子は東京瓦斯電気工業に勤める森太郎を夫としたが、後に別れ日本飛行学校東京航空輸送社などを創設した相羽有と再婚した。次女・なほ子の夫は外山光顕を祖とする子爵・外山英資[25]。弟・長五郎は日本橋本町で三百年続く薬種医療機器商・松本市左衛門[26]の次女・林子との間にいね子、豊長の幼い姉弟を残し[27]30代前半で早世。成人後いね子は岩井財閥の中核企業・岩井商店で取締役を務めた安野譲の長男に嫁いだ。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 従兄弟であり慶應の同窓でもある長次郎とは仲が良かったようで、1906年(明治39年)には欧州留学中の松本烝治のもとを2人一緒に訪れている[2]
  2. ^ 1898年(明治31年)に10人程で慶應最初のテニス会が結成され、和服に下駄履き、草原の空き地でプレーしていた。それから2,3年で清遊ローンテニスクラブ他、複数の同好会が発生。1901年(明治34年)にそれらが団結し正式に庭球部となった。
  3. ^ この時釜石鉱山は五百万円の負債を抱えていた。
  4. ^ 香村と牧田は東京帝大で共に野呂景義の教えを受けた同窓生で香村が3年先輩。
  5. ^ 長一郎の入店当時から共に調査課で働き経理を担当していた田中七之助(1888年生)[7]も同行。
  6. ^ 本店所在地は東京府京橋区北紺屋町12、資本金二千万円。取締役社長・田中長兵衛、常務取締役・横山久太郎、田中長一郎、取締役・香村小録、中大路氏道、監査役・吉田長三郎、高橋亦助
  7. ^ 当時金瓜石は所長の石神に任せきりで本社から人が行くことは殆どなく、技術者畑の所長は交渉が不得手だった。喜んだ長兵衛は三鬼に精巧な白金の時計とその妻へ反物を贈っている[10]
  8. ^ 7月12日の総会で長一郎と虎雄の役職が解かれる。同月16日、築地山口で2人の送別会を開催。東京在住の香村小録と吉田長三郎(叔父)、釜石から中田義算(従妹の夫)、工藤医師が出席した[16]
  9. ^ 所在地は東京府京橋区北紺屋町12、資本金十万円。代表・中島眞澄、田中七之助、取締役・田中長一郎、監査役・岩崎盛太郎。後に中島眞澄に代わり中島省一が取締役に就任[17][18]。なお岩崎は田中家の親戚で1910年に釜石製鉄所へ赴任している[19]
  10. ^ 後に名称変更して参松工業株式会社となる。なお、長次郎には子が無かった為、二代目長兵衛の弟である吉田長三郎[20]の四男・康吉が養子に入り跡取りとなった。
  11. ^ 所在地は神田区岩本町13、資本金十万円。専務・松林善之助(横山久太郎の母方親戚か)、取締役・横山長次郎、田中長一郎、他、監査役・吉田長三郎、他[21]
  12. ^ その他、1918年(大正7年)12月設立の武蔵精米精麦株式会社[23](資本金十万円、代表取締役・松本真平)の取締役も務めた。

出典 編集

  1. ^ 『帝国人事大鑑 昭和7年版』 タ之部 p.40 帝国日日通信社 1932年
  2. ^ 松本烝治関係文書目録” (PDF). 国立国会図書館憲政資料室. p. 5/101. 2023年2月24日閲覧。
  3. ^ 『慶応庭球三十年』 p.27 慶応義塾体育会庭球部 編 1931年
  4. ^ 富士 1955, p. 478.
  5. ^ 『大日本実業家名鑑 上巻』 東京之部 p.た5 (田中長兵衛の項) 実業之世界社、1919年
  6. ^ 『人事興信録 5版』 か之部 p.29 人事興信所 1918年
  7. ^ 『大衆人事録 第3版』 タ之部 p.24 帝国秘密探偵社 1930年
  8. ^ 香村 1939, p. 52.
  9. ^ 高木俊之 (2004年). “釜石製鉄所における三鬼隆と生活構造” (pdf). 法政大学大原社会問題研究所. p. 11/19. 2023年3月20日閲覧。
  10. ^ 『人間三鬼隆』 p.113 三鬼会 1956年
  11. ^ 香村 1939, p. 83.
  12. ^ 『田中時代の零れ話』p.73 村井信平 1955年
  13. ^ 『田中時代の零れ話』p.40 村井信平 1955年
  14. ^ 『工業年鑑 昭和3年(下)』 p.2175 工政会出版部、1927年
  15. ^ 富士 1955, p. 176.
  16. ^ 香村 1939, p. 148.
  17. ^ 『土木建築請負並に関係業者信用録 昭和5年(い-く之部)』 な之部 p.33 帝都興信所、1930年
  18. ^ 『帝国銀行会社要録 第22版(昭和9年)』 東京府 p.234 帝国興信所、1934年
  19. ^ 富士 1955, p. 481.
  20. ^ 『大衆人事録 全国篇 12版』 p.730 帝国秘密探偵社、1937年
  21. ^ 『帝国銀行会社要録 昭和11年(24版)』 p.346、1936年
  22. ^ 『官報 1935年08月12日』 p.390 大蔵省印刷局、1935年8月
  23. ^ 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正8年(8版)』 埼玉県 p.13、1919年
  24. ^ 『鉄鋼界 26(4)』 p.46 日本鉄鋼連盟、1976年4月
  25. ^ 『人事興信録 第14版 下』 ト之部 p.10 人事興信所、1943年 (※妻道子は誤記、正しくは妻なほ子)
  26. ^ 『大衆人事録 昭和3年版』 p.マ-59 帝国秘密探偵社、1927年
  27. ^ 『人事興信録 6版』 た之部 p.13 人事興信所、1921年

参考文献 編集

  • 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年。 NCID BN05767130 
  • 『香村小録自伝日記』香村春雄、1939年。doi:10.11501/1106381 

関連項目 編集