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田 栄(でん えい、? - 紀元前205年)は、末期の国王。子に田広、弟に田横、従兄に田儋。『史記』「田儋列伝」に記述がある。

経歴編集

紀元前208年、秦の将軍・章邯率いる秦軍が王の魏咎を攻めた際、魏咎の要請に応じて田儋と共に援軍を率いて出兵したが、章邯に敗れて田儋は戦死し、田栄は東阿に敗走した。田儋の死後、斉では田假斉王建の弟)が斉王になったが、田栄はこれを認めなかった。章邯が項梁に敗れて秦の脅威がやわらぐと、田栄は田假を攻撃してに追放した。田栄は従子でもある田巿(田儋の子)を斉王に擁立し、自らは宰相になり、弟の田横を将軍に任命して再度斉を平定した。章邯が項梁に反撃すると、項梁は田栄に援軍を求めたが田栄はその条件として楚に逃げた田假の首を求めたため、項梁は拒否して田栄も援軍を出さず、楚軍は敗れて項梁は殺された。このため、項羽から田栄は恨まれた。

項羽が秦を滅ぼして諸侯王を新しく封建した際、斉は3分されて田巿は膠東王、田都を斉王、田安(斉王建の孫)を斉北王にした。項羽は項梁の一件のため、田栄は何も封じなかった。この事で田栄は項羽を恨み、田安を殺し、田都を楚に追い出して再び田巿を斉王にした。しかし田巿は項羽を恐れて封地の膠東に逃げたため、激怒した宰相の田栄は従子の田巿を殺害して自立して自ら斉王となった。

また、項羽に不満をもった陳余の腹心の夏説から兵を借り受ける要請に快く応じた。しかし項羽の侵略を受け、大敗して田栄は平原に逃れたが、現地の住民によって殺害された。

死後、弟の田横が相となり、子の田広を新しい斉王に擁立し、敗残兵をかき集めて項羽への抵抗を続けていった[1]

脚注編集

  1. ^ 『史記の事典』538頁

参考文献編集