白金幼稚園
東京都港区にある幼稚園
沿革
編集戦後、文部省教育研修所(のちの国立教育研究所)所長であった城戸幡太郎が、品川区上大崎にあった研修所の一室において、戦災の中で野放しになっていた幼児らの保育を始めたことを淵源とする[1][2] 。
1947年(昭和22年)、国立教育研究所付属幼稚園として開園[2]。地域の父兄が経営するという形態の下に発足した幼稚園であった[2]。
1949年(昭和24年)、国立教育学研究所による学校経営に難色を示したGHQの指示により、国立大学あるいは東京学芸大学附属の幼稚園へと移管の方針とされた[2][3]。しかし、移管による園の移転は廃園に等しいとする地元父兄らによる反対運動が起こり、1951年(昭和26年)8月、現在地にて、私立幼稚園として存続されることとなった[2][3]。その際には、旧軍の馬小屋を移設して園舎に充てたという[3]。
特徴
編集3歳児童と4歳児童を募集している。毎年白金祭りやバザーが開かれている。また、園庭には裏山があり[4]、生き物の飼育や、菜園活動などが行われている。
その他
編集1993年(平成5年)6月、学校法人白金幼稚園、園児76名、父兄らを含む住民グループが、地下鉄南北線の工事差止めを求めて提訴[5]。隣接地の国立科学博物館付属自然教育園を含む豊かな自然環境の中で園児教育を実践しているが、地下鉄工事による環境悪化で子どもたちの成育環境が破壊されるなどという訴えであったが、一審(東京地裁)、二審(東京高裁)ともに退けられた [6]。
脚注
編集- ^ 「日本の保育(その二) 」22頁
- ^ a b c d e 「私の幼兒教育研究の宿題(2)」9頁
- ^ a b c 「定数と幼児教育について」8頁
- ^ 身近な林のプロフィール 白金幼稚園園庭 - 環境省生物多様性センター 第6回緑の国勢調査
- ^ 朝日新聞1993年6月4日東京地方版 東京 「園児76人も原告 地下鉄7号線ルート変更求め行政訴訟」、読売新聞1993年6月4日東京朝刊24頁「地下鉄南北線工事差し止め申し立て 却下取り消し求め提訴」
- ^ 東京地判平成7年5月17日 行政事件裁判例集46巻4=5号487頁、東京高判平成8年4月15日 行政事件裁判例集47巻4=5号337頁、朝日新聞1996年6月14日東京地方版 東京「住民の訴え二審も棄却 営団地下鉄南北線反対の訴訟」
参考文献
編集- 三木安正「私の幼兒教育研究の宿題(2)」幼兒の教育51巻10号6-11頁(日本幼稚園協會,1952-10)
- 城戸幡太郎「日本の保育(その二) (第二十九回日本保育学会幼稚園百年記念講演)」幼児の教育75巻10号19-24(日本幼稚園協会,1976-10)
- 海卓子「定数と幼児教育について」幼児の教育79巻9号7-13(日本幼稚園協会,1980-09)
関連文献
編集- 「戦後の新教育―白金幼稚園の発足―」海卓子『幼児の生活と教育』(フレーベル館,1965)
- 「椎の木のある幼稚園ができた-白金幼稚園と海卓子」宍戸健夫『保育の森 : 子育ての歴史を訪ねて』(あゆみ出版,1994)
- 「白金幼稚園 SUDA設計室」新建築75巻7号72-83頁(新建築社,2000-06)
関連項目
編集- 梅津八三 - 園発足時の教育研究を指導