益田 弘(ますだ ひろし、1901年10月23日[2] - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。

益田 弘 Portal:陸上競技
選手情報
ラテン文字 Hiroshi MASUDA [1]
国籍 日本の旗 日本
競技 陸上競技
大学 慶應義塾大学
生年月日 (1901-10-23) 1901年10月23日
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経歴 編集

父は実業家の益田英作であり、三井財閥益田孝の甥にあたる[3][4]慶應義塾には幼稚舎から入っていた「純粋の三田っ子」で[3]普通部時代から競走部で活躍した[3]

父は「紅艶」の号を持つ数寄者として知られる一方、スポーツも好み、弘を支援した[3]。練習施設が十分ではなかったこの時代に、目黒の自宅に運動場が設けられ、弘はやり投げの練習に打ち込むことができたという[3]

慶應義塾大学在学中に[5]1920年アントワープオリンピックで男子五種競技に出場した(オリンピックでの日本代表選手の近代五種競技参加は本大会が初[注釈 1])。しかし直前の練習で脚部を負傷し、大会本番では途中棄権した[3]

1932年、目黒不動(瀧泉寺)に隣接していた旧宅地を公園用地として東京市に寄贈した。現在の目黒不動公園である[6]

備考 編集

  • アントワープオリンピックにテニスで出場した熊谷一弥(慶應義塾大学OB)とともに、慶應義塾出身者初のオリンピック選手の一人である[7][注釈 2]
  • 陸上競技のほか、水泳[注釈 3]やラグビー[注釈 4]も水準以上の万能選手であった[3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 同競技には齋藤兼吉もエントリーしたが試合に参加せず棄権。
  2. ^ 慶應義塾の資料では1924年パリオリンピックにも学生として出場とあるが[7]、日本陸上競技連盟等の資料では確認できない[1][5][8]
  3. ^ 1922年(大正11年)の第2回全国専門学校対抗競泳大会(のちの日本学生選手権水泳競技大会)には慶應義塾から「水陸両棲の益田弘」が出場している[9]
  4. ^ 慶應義塾蹴球部(ラグビー部)所属の益田弘は、1922年に早慶戦[10]、1923年に明治大学との試合[11]に出場している。1923年(大正12年)に秋田県でラグビーの指導に当たっている[12]

出典 編集

  1. ^ a b Japanese Delegation of Athletics Team : Rio de Janeiro 2016” (PDF). 日本陸上連盟. p. 38 (2016年). 2020年11月3日閲覧。
  2. ^ Hiroshi Masuda”. Sports-Reference.com. 2018年1月19日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ a b c d e f g 横山寛 (2020年7月27日). “第3回 慶應義塾のオリンピアンたち/競走部──塾出身の韋駄天たち”. 三田評論ONLINE. 2020年11月1日閲覧。
  4. ^ 益田紅艶と五色団子”. とらや. 2020年11月3日閲覧。
  5. ^ a b 中澤 2010, 41頁.
  6. ^ 井下清 (1956). “東京都の寄附公園と岩崎久弥翁”. 造園雑誌 20 (1): 18. https://doi.org/10.5632/jila1934.20.17 2020年11月1日閲覧。. 
  7. ^ a b 慶應義塾のオリンピック・パラリンピック選手”. 慶應義塾. 2020年11月3日閲覧。
  8. ^ 束原文郎1912年〜2008年夏季オリンピック日本代表選手団に関する資料: 所属組織と最終学歴を中心に」(pdf)『スポーツ科学研究』第10巻、2013年、258頁、2020年11月1日閲覧 
  9. ^ 市村魁山 (1932). “日本競泳発達史 第一章 競泳勃興時代”. 水泳 (日本水泳競技連盟) (15): 17. http://www.swim.or.jp/magazine/download/15.pdf 2020年11月3日閲覧。. 
  10. ^ 1922/11/23 対早稲田大学”. 早稲田大学ラグビー蹴球部. 2020年11月3日閲覧。
  11. ^ 1923-12-18 vs 慶應義塾大”. 紫紺の軌跡. 明大ラグビー部物語. 2020年11月3日閲覧。
  12. ^ 秋田県ラグビーの歩み”. 秋田県ラグビーフットボール協会. 2020年11月3日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集