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慶應義塾幼稚舎

慶應義塾幼稚舎(けいおうぎじゅくようちしゃ)は、東京都渋谷区恵比寿にある私立小学校である。運営者は、慶應義塾

慶應義塾幼稚舎
Keio Yochisha Elementary School Tokyo.jpg
国公私立の別 私立学校
設置者 慶應義塾
校訓 独立自尊
設立年月日 1874年明治7年)
創立者 和田義郎
福澤諭吉
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 150-0013
公式サイト 慶應義塾幼稚舎
プロジェクト:学校/小学校テンプレート
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目次

概要編集

 
明治27年(1894年)5月26日の慶應義塾運動会競走の図。図上部左重荷競走の図、右盲目珠拾競走の図。

1874年明治7年)、福澤諭吉の高弟である和田義郎が、慶應義塾の塾生で最も幼い者数名を三田の慶應義塾構内にある自宅に寄宿させて、夫婦で教育を行った「和田塾」が幼稚舎の始まりである。

1937年昭和12年)、福澤諭吉の別邸があった現在の広尾へ移転。谷口吉郎(文化勲章受章)と谷口吉生の父子二代にわたり校舎が設計されており、各教室への採光やグラウンドへの動線など機能的な校舎である本館は80年以上の歴史をもつ。1999年平成11年)に、日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選定されている。

日本で最も古い私立小学校の一つである[1]小中高大一貫教育であり、福澤諭吉の教えを受け継いだ教育が行われている。

入試の志願倍率は全国の私立小学校で慶應義塾横浜初等部に次ぐ高さである(2017年は10.4倍[2])。

140年以上の歴史をもち、各界の著名人を輩出してきた。入学試験にもみられるように、学力だけでなく体育が重視され、「勉強は強制しないし、勉強は家庭の責任」[3][4]、自由闊達な教育方針である。

年表編集

  • 1874年(明治7年)、福澤諭吉の門下生であった和田義郎が慶應義塾で最も幼い者数名を三田の慶應義塾構内にある自宅に寄宿させて、夫婦で教育を行う。この頃は「和田塾」と呼ばれた。
  • 1879年(明治12年)、福沢諭吉が現在の幼稚舎の校地の場所を購入し、広尾別邸とした。
  • 1880年(明治13年)頃から「慶應義塾幼稚舎」と称するようになる。
  • 1898年(明治31年)には正式に慶應義塾の一員となって初等教育から大学に至る慶應義塾の一貫教育が確立した。
  • 1937年(昭和12年)、福沢家広尾別邸の場所に移転。
  • 1964年(昭和39年)までは敷地内に森、農家、田畑があり、福沢家の一族が住んでいたが、東京オリンピックに伴う高速道路の予定地となり撤去された。

教育編集

幼稚舎の教育理念は、校歌の『幼稚舎の歌』にも歌われているように、生徒が福澤諭吉の教え、「独立自尊」を実践できる人材を育成することである。福澤は、「まず獣身を成して、のちに人心を養う」と常に唱え、その教えに従って、幼稚舎では昔から身体能力を鍛えることに力を入れ、入学してから卒業するまでにたくさんの体育行事や活動を用意している。

6年間担任持ち上がり制、教科別専科制を採用している。在籍する男子児童は女子の2倍であり、1クラス36人、内訳は男子24人、女子12人である。一学年計144人である。

各学年にK組、E組、I組、O組の4つのクラスがあり、クラスごとにクラスカラーがあり、K組は青、E組は黄、I組は緑、O組は白である。運動会のクラス対抗リレーなどではそれぞれのクラスカラーのはちまきをする。

I組は2002年(平成14年)度に新設され、2002年度 - 2006年(平成18年)度までは1学年3クラス (K, E, O) と4クラス (K, E, I, O) が混合していた。

教育方針は「勉強は強制しないし、勉強は家庭の責任」である[3][4]

また、6年間クラス替え、担任変更のない教育編成が特徴。クラスごとに方針が異なる。理科、音楽、絵画、造形、体育、英語、情報、習字はそれぞれ専門の教育を受けた教員が指導に当たる。

慶應義塾の教育の一環として児童全員に1000m完泳を義務付けている。また、福澤諭吉の誕生日記念会では幼稚舎生が『福澤諭吉ここにあり』を歌う。校歌は多数あるが、『若き血』、『福澤諭吉ここにあり』、『幼稚舎マーチ』が有名。給食はホテルニューオータニの食事が採用されている。

設備編集

各教室には冷暖房、それぞれ1台ずつプラズマテレビとパソコンが設置してある。

自尊館(講堂)、理科園(自然園)、サイエンスミュージアム(生物標本やニ水族館、ミニ動物園)、けやきホールが備えられている。

図書室は約33,000冊以上の蔵書数を誇る。

最寄り駅は東京メトロ広尾駅。制服の着用義務がある。

入学・進学編集

日本を代表する名門校とされる。そのため、高額な学費と相まって、財界人や政治家・官僚ら政官財界、医者、文化人や芸能人ら著名人など、いわゆる"良家の子女"が多数在籍する。入学試験は学力ではなく行動観察、運動、制作、口頭試問などで行われるため、多くの父兄がお受験塾に通わせる。

慶應義塾大学までの小中高大一貫教育、無試験でそのまま進級できるエスカレーター式を採用しているが、必ずしもそのまま進級できるわけではない。中学・高校で留年制度があるためである。特に義務教育の中学校で出席日数ではなく、学力で留年があるのは、日本国内でかなり異例である。

エピソード編集

  • 「幼稚舎」という名称であるが、小学校であり幼稚園ではない。幼稚舎出身の南博旧制東京高校尋常科(後身校:東京大学)に入ったとき、修身の時間に教育勅語を暗誦できなかったため、「君は教育勅語を知らんのか、いったいどこの小学校からきた」と教師から怒られ、「慶應義塾の幼稚舎です」と答えたが、「幼稚園のことを訊いているのではない、小学校は何処だ」と怒鳴られたという[5]。このようなエピソードからも分かるように、現在でも幼稚園であるとの誤解が多く、また、そう思い込む者も多い。

幼稚舎出身の著名人編集

戦前編集

戦後編集

子息を幼稚舎に通わせた著名人編集

周辺編集

慶應義塾幼稚舎の校地の北側に古川が流れ、天現寺橋交差点の脇には古川と笄川(こうがいがわ)の合流点があり、合流点より上流は渋谷川と名を変える。校地の北東に狸橋という橋が江戸時代から存在している。橋の南西に狸蕎麦という蕎麦店が明治になるまで存在し、福沢は狸蕎麦や周辺の田園風景を気に入りしばしば来店し、1879年(明治12年)には狸橋南岸一帯の土地を買収し別邸を設けた[6]

慶應義塾幼稚舎や外苑西通りを挟んで向かいにある東京都立広尾病院の一帯は江戸時代には「広尾の原」と呼ばれており、徳川家光の時代以降にはしばしば鷹狩鶉狩に利用されていた。その後、明治時代からは砂利採り場となっていたこともあった。古川の流れるこの辺り一帯の海抜は約9メートルで、渋谷区内では最も高度が低い場所となっている[7]

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ 小学校創立年度ランキング│お受験インデックス
  2. ^ 1位「慶應義塾横浜初等部」は11.5倍! 私立小学校志願倍率ランキング - ハピママ
  3. ^ a b 慶應幼稚舎に金で入るにはいくらかかる? コネ入学者の割合は?|LITERA/リテラ
  4. ^ a b 石井至 『慶應幼稚舎と慶應横浜初等部』 朝日新聞出版〈朝日新書〉、2014年5月13日ISBN 978-4022735614
  5. ^ 南博 『出会いの人生―自伝のこころみ』 勁草書房〈南博セレクション〉、2004年12月1日、8頁。ISBN 978-4326698417
  6. ^ 三田評論 2010年11月号「天現寺界隈、そして幼稚舎」より
  7. ^ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p284-5
  8. ^ 実録事件スペシャル★青年が体験した恐怖の6日間奇跡体験!アンビリバボー、2015年7月23日閲覧。

関連文献編集

外部リンク編集