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地理編集

矢ノ川峠は、台高山脈の南端に位置する[1]。この付近は紀伊山地が急斜面をなして熊野灘に沈降する地形となっており、それ故に現在の尾鷲市と熊野市の間を結ぶ陸路は、危険な海岸沿いのルート(現在の国道311号とほぼ同じ)を行くか、江戸時代に開かれた[3]尾鷲湾に注ぐ矢ノ川に沿って源頭を登り、高峰山(標高1,045メートル)の南にあるこの峠を越えるルートを行く方法しかなく、熊野街道で最大の難所とされた[4][5]

歴史編集

江戸道編集

江戸時代の矢ノ川峠は、高峰山山頂の南部を通っていた[5]。また、江戸道の登坂はデンガラ越え(伝唐越)と呼ばれ[6]、途中にはデンガラ滝などがある[7]平安時代より存在した熊野古道伊勢路には[8]、その難所として古くから知られた八鬼山(やきやま)越えがあったが[9]、それに対して、矢ノ川峠のかつての記録としては、享保11年(1726年)に江戸幕府の薬草調査役人が越えたほか、明治3年1870-1871年)に上陸したキリスト教徒が尾鷲方面に越えたことなどが認められるのみであるとされる[3]

明治道編集

1880年明治13年)3月1日、三重県議会において、山谷に阻まれた東紀州の産業活性化に向けて新たな熊野街道を通すにあたり、技術や予算において困難な八鬼山越えでなく、矢ノ川峠を改修する案が可決されると、1886年(明治19年)より峠道の改修(第1次改修)が着工され、1888年(明治21年)5月2日に完成した。しかし、この新たな道も険しい登坂や九十九折れを繰り返し、さらにこの地方特有の豪雨の影響により、実用には不十分なものであった[3]

1911年(明治44年)になって再び改修(第2次改修)に着手されると、次第に街道の各所に隧道(トンネル)などが設けられていき、通行の実用性が高まっていった。それに伴い、1916年大正5年)に紀州自動車が設立されるとともに、1920年(大正9年)には尾鷲自動車が設立されると、乗合の定期自動車が松阪 - 木本(きのもと)間を運行されるようになる。1924年(大正13年)には、両社が紀伊自動車として合併し、尾鷲から木本方面は、積雪のない4-10月に一日2便が運行された。しかし、その運行にはなお豪雨による土砂崩れなどにより多くの支障があった[3]

索道編集

1927年昭和2年)1月より、尾鷲からの運行において最も障害があった大橋 - 小坪の間を、ロープウェイに乗り換え連絡するための敷設工事が着工され、当時、7万円を要して同年5月、日本初の旅客用ロープウェイ「安全索道」(紀伊自動車索道線)が完成した。この索道により、標高差479メートルの区間を結び往復輸送されるようになると[3]、1927年(昭和2年)から約10年間、紀伊自動車が乗合自動車と旅客索道[10]による乗り換え輸送を行なっていた。この「安全索道」の乗客数は年間4,000人弱であった[3]。なお、この時代には、尾鷲 - 木本間の海路として巡航船もあったが、その舟行もまた天候により大きく影響を受けるものであった[11]

昭和道編集

 
尾鷲市側に位置する煉瓦造りの矢ノ川隧道。かつてはここを省営バス(国鉄バス)が通っていた。

1934年(昭和9年)12月19日、紀勢東線(現在の紀勢本線)の三野瀬駅 - 尾鷲駅間が開通し、同年、峠道も本格的な改修に着手されると、1936年(昭和11年)、かつての峠道から南谷を回るルート(矢ノ川新道[12])を通る自動車道(県道松阪新宮線)が開通した(後に旧国道41号、二級国道170号を経て、現在の国道42号[3]。この1936年(昭和11年)から[13]鉄道省の運営する省営バス[14](後に国鉄バス紀南線[12])が走り、紀勢本線が開通するまで[4]、一日4便、片道2時間45分かけて運行していた[3]。このバスからの眺めは熊野灘が一望できる絶景であった[4]自家用車が稀であったこの時代、矢ノ川峠の運行は、ほとんどがバスおよび木材を運搬するトラックであったとされる[3]1944年(昭和19年)になり、紀伊自動車が三重交通に統合されると、矢ノ川峠の明治道は昭和初期に設営された旅客索道とともに廃止された[3]

1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通の前日まで、矢ノ川峠には休憩所を兼ねた茶屋が存在したが、国鉄バスは、尾鷲駅 - 熊野市駅(旧・紀伊木本駅)間の開通により廃止となった。峠にある碑には「冬の日の ぬくもりやさし 茶屋のあと」の句とともに、かつて茶屋を営んだ女性の名が添えられている[3]

その後、1965年(昭和40年)より約30億円を要して[3]1968年(昭和43年)には、峠の南東の矢ノ川トンネル(標高320メートル[5]、延長2,076メートル[15])とともに[4][5]、弓山トンネル(延長137メートル)および新たに尾鷲市と熊野市の境を貫通する大又トンネル(延長1,626メートル[16])が通されたほか、トラス構造の千仞橋(せんじんばし)などの橋梁が架けられ、峠のおよそ400メートル下方に新たな道路が開通したことにより[3]、国道42号線から外された。

現在、矢ノ川峠昭和道は、熊野市側で道路が決壊している区間があり、周辺区間も廃道化が進んで峠を越すことはできず、尾鷲市側も悪路で通行が危険であることから[7]通行止めとなっている。

脚注編集

  1. ^ a b 『三省堂 日本山名事典』徳久球雄・石井光造・武内正、三省堂、2011年、改訂版、1060頁。ISBN 978-4-385-15428-2
  2. ^ 交流イベントスケジュール - 国鉄バス紀南線廃止50周年記念シンポジウム「想い出の矢ノ川峠」”. イベント情報. 三重県立熊野古道センター (2009年). 2019年3月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 庄山剛史『三重の峠 - 自転車でめぐる峠の魅力』風媒社、2005年、201-210頁。ISBN 4-8331-0117-3
  4. ^ a b c d 『日本大百科全書』(小学館
  5. ^ a b c d 矢ノ川峠”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年3月14日閲覧。
  6. ^ エリア4 矢ノ川”. 秘境ガイドブック 魅せます!尾鷲. 尾鷲商工会議所女性部 (2016年). 2019年3月14日閲覧。
  7. ^ a b AREA4 矢ノ川 (PDF)”. 秘境ガイドブック 魅せます!尾鷲. 尾鷲商工会議所女性部. 2019年3月14日閲覧。
  8. ^ 『南紀と熊野古道』小山靖憲・笠原正夫、吉川弘文館〈街道の日本史36〉、2003年、29頁。ISBN 4-642-06236-X
  9. ^ 『熊野古道を歩く旅』山と溪谷社〈エコ旅ニッポン4〉、2008年、142頁。ISBN 978-4-635-60041-5
  10. ^ 『官報』1927年7月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 東紀州ITコミュニティ. “熊野市百科大事典 : 地理 『昭和 2年の交通事情』”. くまどこ. 東紀州百科事典. KUMADOCO.NET. 2019年3月14日閲覧。
  12. ^ a b 伊藤裕之(県史編さんグループ ) (2008年). “第65話 熊野の省営バス関係資料”. 紙上博物館. 三重県. 2019年3月17日閲覧。
  13. ^ 「鉄道省告示第363・364号」『官報』1936年10月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 熊野古道伊勢路友の会 第27号 - 紀勢線全線と矢ノ川峠の今昔 (PDF)”. 熊野古道 伊勢路 幸結びの路. 東紀州地域振興公社 (2009年7月1日). 2019年3月14日閲覧。
  15. ^ トンネル詳細データ - 矢ノ川トンネル(対面)”. トンネルDB.com. 創発システム研究所 (2011年). 2019年3月14日閲覧。
  16. ^ トンネル詳細データ - 大又トンネル(対面)”. トンネルDB.com. 創発システム研究所 (2011年). 2019年3月14日閲覧。

関連項目編集