穂波経尚
江戸時代前期から中期の公卿。穂波家初代。勧修寺経広の次男。従二位、権中納言
穂波 経尚(ほなみ つねひさ)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流勧修寺庶流)である穂波家初代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 正保3年8月14日(1646年9月23日) |
死没 | 宝永3年6月12日(1706年7月21日) |
改名 | 勧修寺経尚→海住山経尚→穂波経尚 |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後西天皇→霊元天皇→東山天皇 |
氏族 | 穂波家 |
父母 | 父:勧修寺経広、母:徳永昌純の娘 |
兄弟 | 勧修寺経敬、経尚、松平経高 |
子 | 養子:晴宣 |
経歴
編集権大納言・勧修寺経広の次男。母は徳永昌純(旗本)の娘。養子に治部卿(非参議)・晴宣[1]。
系譜
編集- 父:勧修寺経広(1606-1688)
- 母:徳永昌純の娘
- 妻:不詳
- 養子
- 男子:穂波晴宣 - 勧修寺尹隆の次男