穂高宿
長野県安曇野市にあった千国街道の宿場
概要
編集穂高神社の鳥居前町として古くから発達し、武田氏の統治下で伝馬宿として整備された。天文6年(1537年)には井口家が問屋役を務め[1]、以後代々世襲し[2]、天正6年(1578年)には通行人の許可状を改める過所役を務めている。天正8年(1580年)仁科盛信が、領中に散在した馬市を穂高に集中させるに際して、等々力治右衛門尉に宛てた数通の書状が現存する。
戦国時代には一町半程度の町並みであったが、江戸時代に北へ拡大し、三町ほどの規模となった。街道を挟んで西側南半が保高町村、西側北半と東側が等々力町村に属した[3]。穂高神社の大門付近が宿場の入り口にあたり、桝形が見られ、宿場の中央を矢原堰が貫流していた。
慶長13年(1608年)には伝馬役が200石の石役を割り当てられている。慶安4年(1651年)の伝馬役は保高町が24軒、等々力町が35軒であった。次第に豊かな宿場町として発展する一方で、文政8年12月(1826年1月)の赤蓑騒動では大庄屋、穀屋、肴屋、油屋などの商家が打ちこわしに遭い、明治2年(1869年)に発生した世直し一揆の会田・麻績騒動でも同様の被害に遭っている[4]。
アクセス
編集脚注
編集参考文献
編集- 『信州の文化シリーズ 街道と宿場』 信濃毎日新聞社、1980年
- 『穂高町誌』1992年