米倉 忠仰(よねくら ただすけ)は、江戸時代中期の大名下野国皆川藩4代藩主、武蔵国六浦藩(金沢藩)初代藩主。六浦藩米倉家4代。官位従五位下丹後守主計頭

 
米倉忠仰
時代 江戸時代中期
生誕 宝永3年2月1日1706年3月15日
死没 享保20年4月8日1735年5月29日
改名 鍋三郎・大膳(幼名)、柳沢保教(初名)、米倉忠仰
戒名 諦了院殿雄厳忠英大居士
官位 従五位下丹後守主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
下野皆川藩主、武蔵六浦藩
氏族 柳沢氏米倉氏
父母 柳沢吉保、片山氏
米倉昌照
兄弟 柳沢吉里柳沢長暢柳沢安基
柳沢経隆柳沢時睦忠仰柳沢保経
春子、真子、綾子、国子、増子、美喜子
本多忠直
香雲院
里矩
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生涯

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宝永3年(1706年)2月1日、5代将軍・徳川綱吉側用人として仕えた柳沢吉保の六男として誕生(一説には四男とされているが、四男は柳沢経隆)。

宝永7年(1710年)7月18日、皆川藩3代藩主・米倉昌照の養子となり、正徳2年(1712年)に昌照が死去したために跡を継いだ。

享保元年(1716年)9月1日、8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保5年(1720年)12月18日に叙任する。享保7年(1722年)7月27日に六浦(金沢)へ移封となる。

享保20年(1735年)閏3月23日、出仕停止を命じられる。病床にあった忠仰は、長男・里矩の年齢を3歳から9歳に修正する報告を行った。幕府はこれを咎めたのである。実は虚偽の報告であり、忠仰死後に判明することになる。同年4月8日、死去。享年30。

跡を里矩が継ぐが、生前に忠仰が里矩の年齢を詐称していたことから、お家騒動が起こった。

系譜

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父母

正室

側室

  • 香雲院 ー 堀井氏

子女