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皆川藩(みながわはん)は、下野都賀郡皆川(現在の栃木県栃木市皆川城内町)に存在した

目次

藩史編集

戦国時代、皆川は松平忠輝の後見人になったことで知られる皆川広照が治めていた。広照は小田原征伐のとき、北条家に与したが徳川家康に降伏し、所領1万3000石を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで広照は常陸国佐竹義宣を牽制した功績を賞されて、3万5000石に加増された。慶長8年(1603年)、広照は忠輝が川中島藩に移ったのに伴って、信濃飯山藩7万5000石に加増移封となり、皆川藩は廃藩となった。

寛永17年(1640年)、上総百首藩から松平重則が1万500石で入り、ここに再び皆川藩が立藩する。重則の後は重正が継いだが、重正は寛文2年(1662年)9月2日に死去した。跡を重利が継いだが、重利は寛文5年(1665年)3月24日に7歳で夭折した。当然、嗣子がいるはずも無く、能見松平家は無嗣改易となり、皆川藩は廃藩となった。

元禄12年(1699年)、上野・武蔵相模などに1万石を領していた若年寄米倉昌尹が5000石加増の1万5000石で入る。昌尹は同年7月12日に死去し、その跡を継いだ第2代藩主昌明のとき、弟の昌仲に3000石を分与したため、1万2000石となった。昌明は元禄15年(1702年)4月25日に死去し、その後を昌照が継いだ。昌照は正徳2年(1712年)5月23日に死去し、跡を忠仰が継いだが、忠仰の代である享保7年(1722年)、居館を武蔵六浦藩に移したため、皆川藩は廃藩となった。

歴代藩主編集

皆川家編集

譜代 1万3000石→3万5000石

  1. 広照

廃藩編集

松平(能見)家編集

譜代 1万500石

  1. 重則
  2. 重正
  3. 重利

廃藩編集

米倉家編集

譜代 1万5000石→1万2000石

  1. 昌尹
  2. 昌明
  3. 昌照
  4. 忠仰