粛侯(しゅくこう、生年不詳 - 紀元前326年)は、戦国時代君主。名は語。成侯の子。子に武霊王

粛侯 趙語
王朝
在位期間 前350年 - 前326年
姓・諱 趙語
諡号 粛侯
没年 紀元前326年
成侯

生涯 編集

父により太子に立てられた。

紀元前350年、成侯が死去すると、公子緤と侯位を争い、即位した。公子緤は敗れてに亡命した。

紀元前349年君の居城の端氏を奪い、晋君を屯留に移した。紀元前348年、粛侯は恵王陰晋で会合した。

紀元前347年公子范が反乱を起こし、邯鄲を襲撃したが、敗死した。

紀元前346年、粛侯は顕王に朝見した。

紀元前344年、軍を派遣してを攻撃し、高唐を攻め落とした。

紀元前343年、趙の公子刻が魏の首垣を攻撃した。

紀元前339年、魏を攻撃した。

紀元前335年、寿陵を立てた。

紀元前334年、粛侯は大陵に遊んで、鹿門に出た。大戊午中国語版が馬をつかんで粛侯を諫めた。

紀元前333年、軍を派遣して魏のを包囲したが、落とせなかった。長城を築いた。

紀元前332年、斉と魏の攻撃を受けた。趙軍が黄河を決壊させて両軍にそそがせると、斉・魏の軍は撤退した。

紀元前328年、趙疵がと戦って敗れ、河西で殺害された。秦は趙の離石を奪った。

紀元前326年、粛侯は死去した。在位24年。

参考文献 編集

先代
成侯
の侯
前350年 - 前326年
次代
武霊王