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紀 押勝(き の おしかつ、生没年不詳)は、日本古代の6世紀後半の紀伊国豪族。名は忍勝とも表記する。

出自編集

この場合の紀氏は、一般に言う紀氏(紀臣氏・紀朝臣氏)ではなく、紀伊国名草郡の大領として同地域を本拠地とし、紀伊国造を世襲してきた紀直一族である。紀直氏は、『新撰姓氏録』「河内国神別」天神によると、「神魂命五世孫天道根命之後也」、「和泉国神別」天神には、「神魂命子御食持命之後也」とある。

古事記』中巻に、孝元天皇の孫、比古布都押之信命(ひこふつおしのまこと の みこと)と木国造(き の くにのみやつこ)の祖宇豆比古(うずひこ)の妹から生まれた子供に「建内宿禰」(たけしうちのすくね)がおり[1]、同様の記述が、『日本書紀』巻第七には、景行天皇の御代に彦太忍信命の子と思われる屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころ の みこと)が阿備(あび)の柏原(かしわばら)に神祇を9年間祭っている間に、紀直の遠祖菟道彦(うじひこ)の女、影媛から武内宿禰を生ませた、とある[2]。『古事記』には、崇神天皇が「木国造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀別(あらかわとべ)の女」を娶り、豊木入日子命(とよきいりひこ の みこと)を生ませたともある[3]

上記のように、皇室との関係も深く、武内宿禰の子孫である紀臣一族もその末裔であるが、以下に示す押勝のように外交で活躍した例はこのほかには存在せず、農耕神としての日前宮を祭祀した在地豪族と考えられている。日前宮の東方に存在する岩橋千塚古墳群は、紀直一族の墳墓と推定されている。

記録編集

日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇12年7月(583年)、天皇は以下のような詔を出した。

「我が先考天皇(さきのすめらみこと)の世に属(あた)りて、新羅、内官家(うちつみやけ)の国を滅(ほろぼ)せり。先考天皇(さきのすめらみこと)任那を復(かへした)てむことを謀りたまへり。果(はた)さずして崩(かむあが)りて、其の志を成さずなりき。是(ここ)を以(も)て、朕(われ)、当(まさ)に神(あや)しき謀(はかりごと)を助け奉(まつ)りて、任那を復興(おこ)してむとおもふ。今百済(くだら)に在(はべ)る、火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)阿利斯登(ありしと)が子達率(だちそち)日羅(にちら)、賢(さかし)しくて勇(いさみ)有り。故(かれ)、朕、其の人と相計(たばか)らむと欲(おも)ふ」 (「なき父、欽明天皇の御代に、新羅は任那の内官家を滅ぼした。先帝(欽明天皇)は、任那の回復を図られた。しかし、果たされないで亡くなられた。それで自分は尊い計画をお助けして、任那を復興しようと思う。いま、百済にいる肥の葦北国造阿利斯登の子、達率日羅は賢くて勇気がある。それで自分は彼と計画を立てたい」)訳:宇治谷孟[4]

最初の文は、欽明天皇23年に、

新羅、任那の官家(みやけ)を打ち滅(ほろぼ)しつ

とあるのを指している [5]。この日羅を迎え入れるために百済に派遣されたのが、同じ国造である紀押勝と、吉備海部直羽嶋(きび の あま の あたい はしま)である。

しかし、その年の10月、押勝らは帰国し、以下のように報告した。

百済国(くだらのくに)の主(にりむ)、日羅を奉惜(をし)みて、聴(ゆる)し上(たてまつ)り肯(か)へず」[6]

しかし、天皇は諦めず、再度羽嶋を百済に派遣した。羽嶋は初回のように百済と正面から交渉しても効果がないと判断し、日羅と直接会う手段をとった。

日羅の知恵により、百済王は日羅の帰国を許し、徳爾(とくに)ら若干の人員をつけて送り出した[7]

脚注編集

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  1. ^ 『古事記』孝元天皇条
  2. ^ 『日本書紀』景行天皇3年2月1日条
  3. ^ 『古事記』崇神天皇条
  4. ^ 『日本書紀』敏達天皇12年7月1日条
  5. ^ 『日本書紀』欽明天皇23年正月条
  6. ^ 『日本書紀』敏達天皇12年10月条
  7. ^ 『日本書紀』敏達天皇12年是歳条

参考文献編集

関連項目編集