細川興栄
日本の江戸時代前期~中期の大名。常陸谷田部藩3代藩主細川興隆長男で、谷田部藩4代藩主。従五位下長門守
細川 興栄(ほそかわ おきなが)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。常陸国谷田部藩の第4代藩主。官位は従五位下・長門守。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治元年(1658年) |
死没 | 元文2年7月19日(1737年8月15日) |
改名 | 万千代(幼名)、興英(初名)、興栄、軸雲(号) |
別名 | 玄蕃(通称) |
戒名 | 鳳泉院軸雲紹泰 |
墓所 | 栃木県芳賀郡茂木町の能持院 |
官位 | 従五位下・長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 常陸谷田部藩主 |
氏族 | 谷田部細川家 |
父母 | 父:細川興隆、母:牧野信成娘 |
兄弟 | 興栄、加藤泰和、亀姫、小笠原長重正室 |
妻 | 本多俊次の娘 |
子 |
興貞、万千代、娘(板倉重同正室。のち細川興誠正室) 養子:興誠、興虎(興誠の子) |
略歴
編集万治元年(1658年)、第3代藩主・細川興隆の長男として誕生した。
元禄2年(1689年)閏1月14日、父の隠居により家督を継ぐ。宝永6年(1709年)3月、従五位下・長門守に叙位・任官する。
短慮な上に粗暴で、殺生を好んだとされており、藩政では重税を強いて領民を苦しめ、家臣に対しても些細なことで厳罰に処するなど、悪政を行なったといわれる。享保13年(1728年)11月23日、家督を興虎(婿養子・細川興誠の長男)に譲って隠居し、軸雲と号した。
系譜
編集父母
正室
- 本多俊次の娘
子女
養子