細谷 四方洋(ほそや しほみ、1938年3月8日 - 2024年1月22日)は、広島県尾道市出身の元レーシングドライバー[1][2][3]

トヨタ純血ワークスチームだった「チーム・トヨタ」[注 1]のキャプテンを務めた[3]

来歴 編集

父親は警察官だったが広島市で原爆に遭い殉職したという。

広島県立尾道商業卒業[1]。1963年に開催された第1回日本グランプリのC-IIクラス(400〜700cc)に、完全ノーマルのトヨタ・パブリカ700でプライベーター(個人)として出場し3位[2][注 2]

その技術を見込まれ1964年、トヨタワークスドライバーになる[1][2]。当時のトヨタは、開発を行うトヨタ自工と販売を行うトヨタ自販が別々だったが(後に合併)、細谷はプロとしてトヨタ自工と契約し技術部に所属[1][注 3]トヨタ・2000GT開発ではボデーライン設計や走行テストを担当した[1][4]。同年の第2回日本グランプリT-IIクラスでパブリカに乗り2位。

1965年10月のKSCCオール関西チャンピオンレースのGT-IIクラスでコロナに乗り優勝。

1966年、トヨタ自工の正式なワークスチームとして「チーム・トヨタ」が発足[5][注 4]。当初のメンバーは細谷、田村三夫福澤幸雄の3人で、細谷がキャプテンに任命された。2000GTプロトタイプによる速度記録挑戦の際に津々見友彦鮒子田寛がチーム・トヨタに加わり、5人のローテーションで同年10月に数々の世界記録を樹立。レースでは、同年1月の鈴鹿500kmレースでトヨタ・スポーツ800に乗り優勝、同年3月のクラブマン富士大会(富士スピードウェイのオープニングレース)でトヨタRTX(1600GTの原型)に乗り優勝[注 5]、同年6月の鈴鹿1000kmレースで2000GTに乗り2位(田村三夫とペア)などの成績をあげる。

1967年4月の富士24時間耐久で2000GTに乗り優勝(大坪善男とペア)。同年7月の富士1000km耐久で優勝(同)。

1968年6月、トヨタ初の本格的プロトタイプレーシングカーであるトヨタ7に乗り、鈴鹿自動車レースで優勝。同年8月の鈴鹿12時間レースで、トヨタ7に乗り優勝(大坪善男とペア)。

1969年10月、日本グランプリでトヨタ7に乗り5位。なお同年2月のトヨタ7の開発テスト中に、同僚の福澤幸雄が事故死する悲劇に見舞われている。

1970年、トヨタおよびライバルの日産が日本グランプリ不参加を表明し、日本グランプリは中止[注 6]。トヨタ7はターボ装備で改良が進んでいたが[注 7]、同年8月にチーム・トヨタのホープだった川合稔がテスト中に事故死したことなどを受け、開発が中断。チーム・トヨタも事実上の活動中止状態になる。

1971年、TMSC-Rというレースチーム運営の会社が発足[注 8]。細谷もTMSC-Rに加わり、同年11月の日本オールスターレースでトヨタ・セリカ1600GTに乗り優勝。

1973年前後に現役を引退。以後はトヨタの嘱託として社員教育などに携わった。

2010年代には、GAZOOレーシングフェスティバルでトヨタ7、ベッキオバンビーノ等のクラシックカーラリーで、トヨタ2000GTを走らせてファンを楽しませている。

2016年9月 初の著書となる「トヨタ2000GTを愛した男たち」を三恵社から出版。

2023年3月 運転免許証を85歳にて自主返納。「免許の返納は自分にできる社会貢献」とドライバー人生に区切りをつけた。

現在は、愛知県岡崎市のRocky Autoが制作する3000GTの監修を勤めている。

2024年1月30日にレジェンドレーシングドライバーズクラブの総会にて訃報が発表された。85歳没[6]

エピソードなど 編集

父親が殉職していることなどから、細谷の生家は決して裕福ではなかったという。第1回日本グランプリに出場を予定していた自営業の知人[注 9]が身内の急病で出場不可能になり、全ての権利を細谷に譲ってくれたことが、レーシングドライバーになるきっかけだったという。細谷はレース前の練習として鈴鹿サーキットを1回走った程度で、借り受けた車両もホワイトリボンタイヤが付いたままの完全ノーマルだったという。それまで電機会社に勤め家庭を持っていたが、日本グランプリ出場を機にトヨタと契約を結び、レースのほか開発ドライバーとしても仕事をこなした[7]

細谷は常にレーシングスーツを2着用意していた。トヨタのドライバー仲間だった浮谷東次郎やチーム・トヨタの後輩の川合稔が亡くなった際、遺体には細谷のスペアスーツを着せたという。

チーム・トヨタのメンバーが後に座談会を行い「誰が一番速かったか」を話し合った際、福澤幸雄(既に死去)などに並び、複数のメンバーから「契約更改前のテストでは細谷さんが一番速かった」という証言が出ている[8]。細谷自身は「久木留博之君(ダイハツからトヨタに移籍)が一番だった」と述べている[9]

細谷はチーム・トヨタのキャプテンとして、調子のいいエンジンを「乗れている」(調子がよくタイムが速い)同僚に回し、自分は常に最後(調子の出ていない)のエンジンを選んでいたという。自分の勝利よりチームの勝利を優先していたためだという[9]

福澤幸雄がトヨタ7のテスト中に事故死した件(1969年2月)に関し、細谷は後に「トヨタ7はル・マン24時間レースやカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300kmを超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福澤君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』ときた。ドライバーはみな自分が一番と思うもので、福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」などと述べている。川合稔が事故死した件(1970年8月)に関しては「1969年の日本カンナムで川合君が優勝したのは、運もありチームのサポートもあった。その後に彼から『レースの勝ち方が分かりましたよ』と言われ、僕(細谷)のボディカラーだった赤を譲ってほしいと言い出したりしたのに対し、何か大きな勘違いをしていなければいいがと思った」などと語っている[9]

注釈 編集

  1. ^ チーム・トヨタはトヨタの本体であるトヨタ自工(当時)が全てを運営し、他企業のスポンサーマネーが絡んでいないことなどから、トヨタの歴史上で唯一の純粋なワークスという意見がある。チーム・トヨタに在籍経験があるのは、細谷、田村三夫福澤幸雄津々見友彦鮒子田寛大坪善男蟹江光正見崎清志川合稔久木留博之の、のべ10人[3]。後年、メンバーの話し合いにより、浮谷東次郎も名誉会員に加えられている(浮谷はチーム・トヨタの発足前に事故死している)
  2. ^ 1〜2位をはじめ、周囲はメーカーの後押しを受け、性能を高めていたと見られる車両ばかりだったらしい。細谷のパブリカは地元ディーラーから借り出した中古車だったという。細谷が他車をコーナー区間で抜いても、直線区間で再び抜き返されるという繰り返しだったという。第1回日本グランプリでは「自動車メーカーは個々のチーム運営に直接手を出さないこと」という紳士協定が存在したが、実際にはメーカーの手でチューンされた車両が数多く出場していたと言われる。
  3. ^ トヨタ自販はアマチュアドライバーの組織としてTMSC(トヨタモータースポーツクラブ)を結成。式場壮吉浮谷東次郎や杉江博愛(後の徳大寺有恒)などはトヨタ自販側の契約。
  4. ^ 当時としては非常に高性能なトヨタ・2000GTの開発に伴い、プロドライバーの組織が必要になったためだという。
  5. ^ これがチーム・トヨタ発足後の初レース。
  6. ^ 北米で厳しい排ガス規制が施行されることを受け、開発力を規制対応に振り向けるためだったと言われる。
  7. ^ ル・マン24時間レースや北米のカンナムレースへの出場計画もあったらしい。
  8. ^ チーム・トヨタはトヨタ自工が運営したが、TMSC-Rはトヨタ自販系。
  9. ^ 1951年に開催された日本一周読売ラリー(日本初の本格的ラリー)で2位になった岡本節夫という人物。細谷とはバイク仲間だったという。

出典 編集

参考文献・ウェブサイト 編集

  • 桂木洋二『激闘 '60年代の日本グランプリ』グランプリ出版、1995年。ISBN 4876871590 
  • ノスタルジックヒーロー芸文社 
  • TEAM TOYOTA ~トヨタの礎を築いた10人
  • 『細谷四方洋 回想録 #1』: 三妻自工 Blog