福澤 幸雄(ふくざわ さちお、1943年昭和18年)6月18日 - 1969年(昭和44年)2月12日)、フランスパリ生まれのレーサーファッションモデルかつ紳士服メーカー「EDWARD'S(エドワーズ)」の企画部長。新字体で福沢幸雄とも表記される。身長170cm。福沢諭吉の曽孫。マックスファクター東レパナソニック等のイメージ・キャラクターも務めた。

福澤 幸雄
生誕1943年6月18日
フランスの旗 フランスパリ
死没 (1969-02-12) 1969年2月12日(25歳没)
日本の旗 日本 静岡県
職業レーシングドライバー
実業家

経歴編集

生い立ち編集

当時在フランス(ヴィシー政権)日本国大使館に勤務していた父親の福澤進太郎(当時慶應義塾大学法学部助教授)と、フランスへ歌の勉強に来ていたギリシャ人ソプラノ歌手福澤アクリヴィとの間に生まれた。 慶應義塾の創設者福澤諭吉の曾孫で、妹はアーティスト福澤エミ第二次世界大戦の終戦後に家族とともに帰国し1950年(昭和25年)9月Japan Evangelicas Christian Schoolに入学、1953年(昭和28年)4月港区白金小学校第四学年編入、1956年(昭和31年)3月同小学校卒業、同年4月慶應義塾中等部入学、1959年(昭和34年)4月同日吉高等学校を経て、1962年(昭和37年)4月慶應義塾大学法学部政治学科へ進学した。その後1964年(昭和39年)5月フランス留学(Tiwilition Rancaise)、同年12月帰国[1]。 日、英、仏、ギリシャ語の4ヵ国語を自在に操る語学力をもつ[2]

モータースポーツ編集

  •  
    トヨタ・7(1970年仕様)
    在学中からモータースポーツに親しみ、いすゞファクトリー契約のレーシングドライバーの一員となり、ベレットGT船橋サーキットに通い、1966年(昭和41年)1月トヨタ・ファクトリーの契約レーシングドライバーとなった。
  • トヨタ在籍時は、スポーツ8001600GT2000GTトヨタ・7などのレーシングカーに乗り、数々のビッグイベントで好成績をおさめてきた。特に1968年(昭和43年)11月、富士スピードウェイでおこなわれた“日本Can-Am”での健闘が有名。並みいる外国人プロレーサーが操る7リッター2座レーシングカーを相手に、3リッターのトヨタ・7で戦い、総合4位。日本人選手の中では第1位という成績で大活躍をした。また2000GTで記念すべき第一回鈴鹿1000kmの優勝者にもなり、第三回でもトヨタ・7を駆って優勝している。
  • 1966年(昭和41年)秋に同社が茨城県谷田部に所在した日本自動車研究所の自動車高速試験場で行なったトヨタ・2000GTの“スピード記録挑戦”に参加、4人のチーム・メートと交代でハンドルを握りながら70時間余りを走りきって輝かしい記録を作った。因みにプライベートでもトヨタ・2000GTを愛用していた。

トレンドリーダー編集

  • レーサーとして活躍するかたわら、1963年には、紳士服アパレルメーカーとして人気を博していたEDWARD’S(エドワーズ)の取締役兼企画部長を務めファッション・リサーチに専念、さらに小柄ながらもその端整な顔立ちと福澤諭吉の曾孫という経歴からモデルとしても有名となった。CMの世界では、1967年 - 1968年頃にマックスファクターフォーメン、ナショナル・パナソニックトランジスタラジオ東レトヨタ・パブリカ(初代後期最終型・UP20型系)等のイメージキャラクターでもあった。
  • 1967年からはエドワーズの中に『ボージェスト』という自分のブランドを立ち上げる[3]
  • 内容は、ヤングマン向けのスーツやセーター、それにシャツなど[4]
  • エドワーズもまた、VANJUNと比べれば売り上げ的には一桁違う存在だった。エドワーズはあえて大衆路線を嫌い、志向性の強いブランドイメージを訴えるために幸雄に白羽の矢を立てた。日本人離れした風貌、『福澤』の血筋、そしてレース界とファッション界という時代の最先端を疾走する若々しい才能のイメージは、数字よりも『良質』を追求する贅沢感に満ちている[5]
  • かまやつひろし堺正章など、親交の深かったザ・スパイダースの人気の影の立役者[注釈 1]でもあり、仕事で行く先々で取り入れた内外の知識や文化を、トレンドリーダーとして発揮させていた。
  • 当時、芸能人・文化人たちのサロン的様相を呈していた東京・飯倉のイタリアン・レストラン「キャンティ」の常連のひとりであり、そこで幅広い交友関係を培っていったが、中でもムッシュかまやつとの親交は深かった。国際レースやファッションショーでヨーロッパでの活動が多かった福澤は、現地で見聞きした音楽、ファッション、ダンスに関する最新情報をムッシュに伝授。それはスパイダースにフィードバックされ、やがて日本のポップス・シーンのトレンドになっていったのである。[6]
  • 福澤にとって慶應の先輩でありキャンティの常連でもあった作曲家・ピアニストの三保敬太郎。ムッシュ同様に生前の福澤からヨーロッパの最新音楽トレンドを伝授され、様々なアドバイスを受けていた彼は、福澤が好きだった「ネヴァー・マイ・ラヴ」「マシュ・ケ・ナダ」「ワン・ノート・サンバ」「ゴーイング・オウト・オブ・マイ・ヘッド」等のカヴァーに自作曲を加えた構成のアルバム『SOUND POESY SACHIO』を「三保敬太郎と彼のグループ」名義で69年11月10日にリリースしている[7]
  • また、当時から内田裕也加賀まりこ川添象郎・光郎兄弟、杉江博愛(後の徳大寺有恒)らと親交が深く、港区にあるレストラン「キャンティ」の常連でもあった。
  • 当時、ある時は一日15時間も時を共にしていたかまやつひろしの言葉が、幸雄のスタイルを言い当てている。『2つの派が分かれているとするなら%の少ないほうを選ぶ。本当に好きな物を持っていたり着ていたり聞いていたりするのが自分一人だったらもぅ最高。それが価値観の基準だったような気がするな』[8]
  • ファッション界においても、幸雄の登場は規格外だった。当時ヨーロピアン調のファッションで人気だった男性ブランド、エドワーズの元専務・畑埜佐武郎が振り返る。『64年頃、幸雄は欧米のファッション界で活躍していた歳上のモデル、ピーター(松田知子)とパリで暮らしていました。私たちは欧州市場視察のためにパリに行きましたが、その任務の一つに、幸雄に給料を渡すことも含まれていたのです』~中略~幸雄にはパトロンがいたのだ。その一人がエドワーズの創業者・倉橋一郎だった。未亡人の佳子が当時を振り返る。『主人は才能がある若者と出会うとすぐに力を貸したがる人でした。幸雄さんも20歳の頃からよく会社に出入りしていました。それはかっこよくて素敵な若者でしたよ。』エドワーズの創業は63年頃。大阪の生地問屋に勤めていた倉橋がデザイナーの小林秀雄と出会い、アメリカン・ファッションのVANに対抗したヨーロピアン調のファッションをテーマに東京にオフィスを構えた。生まれながらにヨーロピアンの香りを持つ幸雄は、だから格好のイメージ・モデルだったのだ。エドワーズの幸雄への期待を、畑埜が語る。『幸雄には、新しい商品への意見を聞いたり欧米のファッション誌の情報をいち早く教えてもらったりしました。彼がパリやロンドンに行っているときは、本場の生の情報を送ってもらってもいました』[9]

事故死編集

  • レーシングドライバーとして更なる飛躍を期待されていたが、1969年(昭和44年)2月12日静岡県袋井市ヤマハテストコースでトヨタのレーシングカー、トヨタ・7のテスト中に起きた事故により、この世を去った。享年25。
  • 訃報を聞いた、当時の恋人だった歌手小川知子が、フジテレビ系列の歌謡番組『夜のヒットスタジオ』の生放送中に「初恋のひと」を歌唱しながら涙を流した。
  • 後に、親友のかまやつひろしが、彼を偲んだ曲「ソーロングサチオ」を作り、ザ・スパイダースのアルバムに収録し、話題を呼んだ。又、同じく親友の一人であった三保敬太郎により『サウンド・ポエジー“サチオ”』という追悼アルバムも同時期に発表されている[注釈 2]
  • 同アルバム内9曲目の「パリの想い出」という作品は、伊集加代子(後の伊集加代)のスキャットをBGMに福澤と三保の2人がパリについて語り合うという構成になっており、両名の生前の肉声が聞ける貴重な音源である。また寺山修司は福澤幸雄の事故死をテーマにした「さらばサチオ「男が死ぬとき その2」」を作詞し、現在でもCD(寺山修司 作詞+作詩集)で聴くことができる[10]

事故詳細編集

開発テスト編集

1969年(昭和44年)2月10日袋井テストコースがコース開きとなり、翌々日の最初の本格的な走行中に福澤の死亡事故が発生した。ここは10月の日本グランプリに向けて、新型の5リッタートヨタ・7の開発拠点となる予定だった。当日、福澤は5リッタートヨタ・7用に試作したロングテールのクローズドボディを旧型の3リッタートヨタ・7のシャシに装着して先行開発テストを行っていた[11](5リッタートヨタ・7は当初クローズドボディで設計されたが、試走の結果からオープンに改装された[12])。

直線区間から1コーナーに向かう途中、福澤のマシンは突然コースアウトしてコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突、さらに土手に激突して炎上した。福澤の同僚(トヨタワークスのキャプテン)だった細谷四方洋は事故後に腕に火傷を負いながら助け出そうとしたが、シートベルトが外れず救助できなかった。結局、救助できたのは消火作業後だったが、福澤はすでに死亡していた。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、標識に激突した時点で即死だったとみられる[13]

目撃証言では直線部分で突然クルマの挙動が不安定になり、コース右側の標識に激突したという。横風の影響を受けたという見方もあるが、遺族は車両側の原因(空力、強度、マシントラブルなど)による事故の可能性を強く疑った。さらに父・進太郎の証言では前日、非常にナーバスになっており、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたという。

細谷は後に「トヨタ7はル・マン24時間レースカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300kmを超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福澤君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』ときた。福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」と述べている[14]

裁判編集

当時のトヨタは、特にライバルの日産自動車との間でレーシングカーの開発競争にしのぎを削っていた時期でもあり、警察の現場検証に対してさえも「企業秘密保持」との理由から、事故車両を早々と撤収した。さらに(故意ではないが)証拠資料として事故車両とは全く違うタイプのレーシングカーの写真を提供したり、また、事故原因については、「車両側ではなくドライバー側に非がある」と主張した。

この事は、当時のマスコミも事件扱いし、多くの新聞や雑誌、果ては国会でも取り上げられ、社会問題にもなった。このようなトヨタの対応に怒りを覚えた父の進太郎は、その後息子の幸雄の名誉回復のため、トヨタ関係者を業務上過失致死傷、証拠隠滅で告訴。静岡地方検察庁浜松支部は、「3人を控訴するだけの証拠がないとして」不起訴としたが、浜松検察審査会が不起訴不当判決。再捜査が行われて再度不起訴といった展開となった[15](「福沢裁判」と呼ばれる)。

その後10年以上法廷で争った末、1981年(昭和56年)にトヨタが遺族側に6,100万円を支払う形で和解が成立したが、事故原因の真相については未だに不明である[16][17]

エピソード編集

  • 彼の流暢な外国語や垢抜けたファッションセンス、自然なレディファーストも、やはり彼が慶應義塾の創立者福澤諭吉の曾孫で、パリ育ちという毛並みの良さと関係している。車を持つこと自体がステータスだった昭和40年代に、学生でありながらレースに関わるなど山の手坊ちゃんでなければありえないはず[18]
  • 本物の海外文化を肌で知り、1960年代の若者文化に、多大なる影響を与えた男である。銀座の今は無き名店「チロル」謹製のトレンチコートは、一回も洗わずに育てた伝説の品。こいつを無造作にはおり、パリのカフェでタバコをくゆらす彼の恰好よさは、並みいるパリジャンを圧倒していた[19]
  • エドワーズのデスクにて。オフィスに出れば、自分自身が企画した「ボージェスト・シリーズ」に没頭していた。自らポスターのモデルをつとめるだけでなく、新作発表会では、名司会ぶりも発揮[20]
  • 鯨岡を通して幸雄とエドワーズの縁も生まれた。幸雄とファッション界を結んだ原点は、やはり『キャンティ』だったのだ[21]
  • 日本で一番かっこいい男[22]
  • エドワーズの幸雄への期待を、畑埜が語る。「幸雄には、新しい商品への意見を聞いたり欧米のファッション誌の情報をいち早く教えてもらったりしました。彼がパリやロンドンに言っている時は、本場の生の情報を送ってもらっていました」慶應の中等部・高等部時代からファッションにも目覚めていた幸雄は、同級生の実家が銀座の洋服店と知ると、「ボクに商品企画をさせて」と売り込むこともあった。高等部時代にはすでに青山の老舗テーラー「森脇」で、季節ごとにスーツをしてもいる。現・オーナーで二代目のの森脇聖一郎が語る。「幸雄さんのことは鮮烈に覚えています。あの時代にヨーロピアン・スタイルの『シルエット』を強調するお客さんは他には皆無でした。幸雄さんは高校時代アメリカンフットボールをやっていたので変な所に筋肉がついている。それをカバーするためにあれこれ工夫をしたものです」[23]
  • 光郎が語る当時の遊びは、信じられないほどスリリングだ。「中学の頃から幸雄とは赤坂のクラブで遊んでいたんだ。あるとき試験の前の日、アクリヴィーが『サチオが帰って来ない』と心配して電話をかけてきた。慌てて探しに行ったら、アイツ、ホステスの部屋で風呂に入っていたよ」「長者丸の福澤家の屋敷は1000坪くらいあったんじゃないかな。小学校時代から庭でジープの運転の練習をしていたというから。うちはそんなに広くない。リビングにグランドピアノが置ける程度だったな」「ボクらは高校時代から当たり前のように『森脇』で服をオーダーしていたよ。代金?もちろん親父のツケですよ」「66年にボクがパリの『マキシム』で修行した時も幸雄と遊んだよ。カルティエ・ラタンディスコにいったなぁ」等々。オープン時の『キャンティ』のサイン帳には、国内外のスターたちのサインが並ぶ。イヴ・モンタンシャーリー・マクレーンピエール・カルダンジェローム・ロビンス三島由紀夫井上靖等々。彼らが夜毎集い飲み語り合う「川添家のダイニング」と呼ばれたこの店で、ヤンチャ盛りの高校生だった川添兄弟と幸雄はツケで食事をし、見るもの聞くもの全て劇薬のような大人の刺激を全身で吸収していった[24]
  • ファッション評論家・鯨岡阿美子。斯界の大御所だった鯨岡は、10代後半の幸雄の容姿と礼儀正しさ、その物腰にすっかりファンになってしまったようだ。こんな言葉を残している。「高校時代から、彼はもう大人の生活をしていた」「ひじょうに感受性が強いし、素直にものごとを表現する。好きな女性が年上だろうが甘えるんじゃなくていたわる」「服装は教養の現われ。彼は自分をみつめて自分をしりつくしていた」[25]
  • 『キャンティ』で幸雄と出会い、ほどなくして恋に落ちる。松田が振り返る。「幸雄はどこかに翳があって、いつも寂しさを漂わせていました。物凄く家族思いで、どんなに遅くなっても必ず鎌倉山の家に帰っていっことも忘れられない記憶です」[26]
  • 「かまやつひろしはこう振り返る『幸雄は8人目のスパイダースと言われていたからね。衣装や踊りにもアドバイスをもらっていたし。その幸雄が突然死んじゃったんで、どこかでやる気がなくなっちゃったというのもあったな。』」[27]
  • 萩原健一はこう語っている。福澤幸雄さんとは、東京・飯倉片町のイタリア料理店『キャンティ』で知り合った。かまやつひろしさんに紹介されたんだ。オレは16歳、ザ・テンプターズのヴォーカルとしてデビューしたばかりだった。幸雄さんは7歳上だったから、彼が23歳頃から亡くなる25歳まで、2年ばかりの付き合いだったことになる。『キャンティ』か、近くの『ムスタッシュ』というフランス料理店で、いつもご馳走になったよ。幸雄さんが運転するトヨタのコロナに乗って、恋人だったモデルの松田和子さんと3人で食事に行ったり、彼女の住んでいた麻布の家に一緒に遊びに行ったりした。幸雄さんから受けた影響は、計り知れない。とにかく、センスがすごかった。車、ファッション、音楽、食べ物。図抜けたセンスを持ってたよ[28]
  • オレたちテンプターズの衣装についても、幸雄さんは、いろいろ言ってたね。テンプターズは、田辺さんが作った事務所に所属していたんだけど、他のグループサウンズ(GS)と違って、それぞれがバラバラな衣装を着ていることで、人気だったんだ。でも田辺さんは「やっぱり同じ衣装を着た方がかわいい」と言って、オレたちにも揃いの衣装を着せるようになった。それを見て、幸雄さんは「お前ら、ユニフォームなんか着るんじゃないよ。なんだ、アップリケみたいなの付けて」って、オレに言うんだ[29]
  • 出会いは六本木辺りでブラブラしている時だったかな。あのころから幸雄はエドワーズからいくらかもらっていたようだけど、生活のために働くっていうことはついぞなかったね。お金に関しては恵まれていて、服に車にレースに出るためのパーツにってやりたい放題でした。あの頃は日本人全体が異常に外国に憧れていた時代でした。その中で『キャンティ』は川添浩史・梶子夫妻をはじめお客さんにも外国生活の経験者が多かったから、いろんなグローバルな情報をボクらにくれる場所でした[30]
  • 幸雄は音楽やダンスの流行の情報もよく教えてくれて、それでスパイダースの前四人(堺正章、井上順井上堯之、かまやつ)は踊るようになったんです。コスチュームも「今、ミリタリーだ」とか「全員同じ格好をしないで一人一人個性に合わせたほうがいい」とか。ボクがスパイダースに入って幸雄が死ぬまでの6年間、あの頃はそんな話ばっかりしてました。幸雄はよくレンガ色の薄汚れたレインコートを着ていて、あいつが着るとなんか格好いいんだよね。そういえば、幸雄と加橋かつみとボクでバンド作ろうなんて話もしてたな。バンド名は「EXIT」。でも、一度も演奏したことはないままでした[31]
  • ボクらは高校時代から当たり前のように青山にある『森脇』という老舗ブティックでスーツをオーダーしていたよ。代金?もちろん親父のツケですよ」そう語ったのは、幸雄の竹馬の友で「キャンティ」の2代目オーナーだった川添光郎だった[32]
  • 「森脇」の2代目オーナーの森脇精一郎も幸雄の記憶をこう語る。「あの時代に幸雄さんはヨーロピアン・スタイルを強調するシルエットをオーダーしていました。そんなお客さんは他にはいなかった。」[33]
  • そんな幸雄のことを「キャンティ」で知ったデザイナーが、一人の男を幸雄に紹介する。それが「エドワーズ」というアパレルメーカーの創業者、故・倉橋一郎だった。本場ヨーロピアン・スタイルを追求するエドワーズのデザインは幸雄の眼鏡に叶い、幸雄は二十歳のころから倉橋のオフィスに出入りするようになる。倉橋はそのたびに、幸雄から本場のファッション情報を聞き、代わりに小遣いを与えていた。昭和39年に幸雄がヨーロッパに渡りレース学校に学んでいた時には、エドワーズは社員をヨーロッパに派遣して、幸雄に本場のファッション界を案内してもらっている。そういう関係の中から、幸雄は42年にはエドワーズの中に『ボージェスト』という自分自身のブランドを持ち、デザイナーとしての活動もスタートさせた[34]
  • 「幸雄はパリに来ると、私のアパートに泊まっていました。39年に来たときは白いアルファロメオの中古車を買いに、スイスルガーノまで行ったこともありました」語ったのは、幸雄の当時の恋人、松田知子、通称ピーターだった。昭和34年、ルイ・フェローに見いだされ、日本人初のファッションモデルとして海を渡ったピーターは、サンローランディオールのショーモデルとして国際的に活躍していた。たまに帰国すると、住んでいたのは「キャンティ」の裏手にあったスペイン村と呼ばれるアパート。キャンティで食事をするうちに幸雄と出会い、二人は7歳の年齢差を越えて恋に落ちる。年下ではあっても老成した物腰の幸雄のことを、ピーターは「若じいさん」と呼んでいた。こう続ける。「幸雄はどこかに翳があって、いつも寂しさを漂わせていました。物妻く家族思いで、どんなに遅くなっても当時家族住んでいた鎌倉山に帰っていきました」[35]

略年譜編集

  • 1943年 6月18日第二次世界大戦中のフランス・パリで生まれる。父は当時フランス大使館に勤務していた慶応義塾大学助教授・福澤進太郎、母はギリシャ人歌手・アクリヴィー。
  • 1945年 終戦とともに一家でアメリカへ
  • 1946年 日本へ帰国。聖心女学院付属小学校、東久留米のミッション・スクール(Japan Evangelicas Christian School)に通う。
  • 1953年 港区芝白銀小学校第4学年編入
  • 1956年 慶応義塾中学校入学
  • 1959年 慶応義塾日吉高等学校入学
  • 1962年 慶応義塾大学法学部政治学科入学
  • 1963年 鈴鹿サーキットで第一回日本GP開催。参加を希望するも両親の反対で実現せず。このころ間もない服飾メーカー、エドワーズでファッション・リサーチの仕事を始める。
  • 1964年 5月フランス、マニクールのTiwilition Rancaiseレーシングスクールへ入学。12月帰国。
  • 1965年 7月18日、全日本自動車クラブ選手権でレース初出場。マシンは「ベレット1500」。初戦は1周目リタイアに終わるが10月、舟橋サーキットのクラブマン・レースに参加し総合優勝。つづく鈴鹿300キロでも2位になり、活躍ぶりがトヨタのレース首脳の目に留まる。
  • 1966年 1月よりトヨタ・ファクトリーに正式参加。3月27日、第4回クラブマン・レース富士大会出場。トヨタ初レースの車は「トヨタRTX」=発売前の「トヨタ1600GT」。2位でゴールし、イギリスから来日していたジム・クラークに祝福される。その後トレーニング中の炎上事故で全治4週間のやけどを負う。5月29日、全日本選手権第2戦に出場し3位に。6月26日、鈴鹿1000キロ・レースに津々見友彦とコンビを組んで「トヨタ2000GT」で出場し、初優勝。10月1~4日、「トヨタ2000GT」のスピードトライアルにチームとして参加。
  • 1967年 7月23日、鈴鹿12時間レースに「トヨタ1600GT‐RTX」で参加し鮒子田寛とのコンビで優勝。
  • 1968年 エドワーズ企画部長として新ブランド「ボージェスト」シリーズに本格的に関わる。5月3日、日本グランプリに「トヨタ7」で初参加。9月23日、鈴鹿1000キロ・レースに鮒子田寛とのコンビで総合優勝。10月20日、第10回全日本クラブマン・レースで総合2位。11月23日、ワールド・チャレンジカップ富士200マイル・レースで総合4位、日本勢では1位。ファッション、ダンスに関する最新情報をムッシュに伝授。それはスパイダースにフィードバックされ、やがて日本のポップス・シーンのトレンドになっていった。
  • 1969年 2月12日、静岡袋井市のヤマハ・テストコースで「トヨタ7」のテスト走行中、事故により死亡。

映画編集

  • 『男の挑戦』松竹大船 1968年3月1日封切 レーサー役

関連事項編集

注釈編集

  1. ^ かまやつひろしは、福沢の死後「彼はもうひとりのザ・スパイダースだった」と語っている。
  2. ^ このアルバムは、近年CD音源化され、インディーズレーベルより再発されている。

出典編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 『幻のレーサー・福澤幸雄』山本一哉、昭和53年4月、5頁、ノーベル書房
  2. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、112頁、講談社
  3. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、118頁、講談社
  4. ^ 『モーターファン・オートスポーツNO.43』1969年1月、49頁、三栄書房
  5. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、119頁、講談社
  6. ^ http://music-calendar.jp/2015061801
  7. ^ http://music-calendar.jp/2015061801
  8. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、112頁、講談社
  9. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、114頁、講談社
  10. ^ favor corporation 寺山修司 作詞+作詩集
  11. ^ 「SPORTCAR PROFILE SERIES III トヨタ7 PART II 5l仕様」p.186。
  12. ^ 「SPORTCAR PROFILE SERIES III トヨタ7 PART II 5l仕様」p.188。
  13. ^ 『激突 '60年代の日本グランプリ』pp.152-153。
  14. ^ ノスタルジックヒーロー』2009年8月号
  15. ^ 「トヨタ関係者再び不起訴」『朝日新聞』昭和47年8月1日.19面
  16. ^ 『福澤幸雄事件』。
  17. ^ 『レーサーの死』。
  18. ^ 『Men's Precious』プレシャス増刊 2015年7月号増刊、61頁、小学館
  19. ^ 『Men's Precious』プレシャス増刊2015年7月号増刊、34頁、小学館
  20. ^ NAVI CARS』ナビカーズ 01、2012年6月、104頁、ボイス・パブリケーション
  21. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、117頁、講談社
  22. ^ 週刊サンケイ』昭和44年3月3日号、産業経済新聞社
  23. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、114頁、講談社
  24. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、116頁、講談社
  25. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、116頁、講談社
  26. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、117頁、講談社
  27. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、120頁、講談社
  28. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、122頁、講談社
  29. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、123頁、講談社
  30. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、124頁、講談社
  31. ^ 『贅沢な人生。』セオリーvol.1、2009年1月、125頁、講談社
  32. ^ 『NAVI CARS』ナビカーズ 01、2012年6月、105頁、株式会社ボイス・パブリケーション
  33. ^ 『NAVI CARS』ナビカーズ 01、2012年6月、105頁、株式会社ボイス・パブリケーション
  34. ^ 『NAVI CARS』ナビカーズ 01、2012年6月、106頁、株式会社ボイス・パブリケーション
  35. ^ 『NAVI CARS』ナビカーズ 01、2012年6月、106頁、株式会社ボイス・パブリケーション

参考文献編集