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結城城(ゆうきじょう)は茨城県結城市結城にあった日本の城室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。結城市指定史跡[1]

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結城城
茨城県
実城空堀
実城空堀
別名 臥牛城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 結城朝光
築城年 寿永2年(1183年
主な改修者 水野勝長
主な城主 結城氏水野氏
廃城年 慶応4年(1868年
遺構 空堀、土塁
指定文化財 市指定史跡
位置 北緯36度18分28.88秒
東経139度53分9.44秒
座標: 北緯36度18分28.88秒 東経139度53分9.44秒
地図
結城城の位置(茨城県内)
結城城
結城城

概要編集

小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。

その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった

文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。

小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。

廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。

元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。

戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。

歴史・沿革編集

構造編集

北に田川が流れ、東に深田が入り込む、台地北東端に占地する。西および南には田川の旧河道等を利用した堀が設けられ、台地との間を遮断している。

城域内部は、北東端の実城、実城西側の西舘、実城の南の中城、中館の更に南の東館、の大きく四つの郭に区分され、それぞれの郭間に深い堀が設けられている。堀の作りは全体的に直線的で単調であるが、中城の周りの空堀には折れが見られる。

考古資料編集

遺構編集

現在城域は公園および宅地として開発されており、遺構の保存状態は必ずしも良くない。各郭間に設けられた堀も多くが失われたが、実城西から南および中城南西部に空堀が残る。また、中城の東から西館の西、および、東館の南から東に掛けて、それぞれ水堀の跡が残る。

脚注編集

  1. ^ 「14・結城城跡」結城市公式HP

関連項目編集

外部リンク編集