色部 照長(いろべ てるなが)は、江戸時代後期の米沢藩重臣で、侍組分領家の一つ色部氏当主。通称は弥三郎、典膳、修理。は照長。落飾後に遥山、松翠とする。

 
色部照長
時代 江戸時代中期から後期
生誕 享保13年(1728年
死没 文化4年9月10日1807年10月11日
別名 通称:弥三郎 → 典膳 → 修理。隠居:遥山、松翠
戒名 諦了院殿江月照長居士
墓所 千眼寺
官位 なし
主君 上杉重定治憲
出羽国米沢藩奉行
氏族 桓武平氏秩父氏色部氏
父母 父:色部政長
兄弟 色部照長、畠山茂輔、色部至長
色部至長
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経歴編集

色部政長(長門)の子として生まれる。宝暦11年12月14日(1762年1月8日)に奉行(他藩の国家老に相当)であった父が隠居したのを受けて家督相続。宝暦12年1月5日(1762年1月29日)に江戸家老に就任。

宝暦13年(1763年)に同じく江戸家老である竹俣当綱が江戸から米沢に下って、上杉重定の側近として権勢を振るう森利真を殺害するが、芋川正令千坂高敦とともにこれを支持し、竹俣や色部、千坂らとともに江戸藩邸の重定の下に事後報告を行う。

藩財政窮乏に万策尽きた重定が、江戸幕府に藩土を返上することを相談するために、照長が重定の親族である尾張藩の下に派遣される。しかし、宝暦14年1月(1764年)には尾張藩より戒められる旨の返答が返される[1]

明和4年(1767年)に重定が隠居し、上杉治憲が家督相続すると、治憲や米沢新田藩主(支侯)上杉勝承とともに白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。

明和6年1月5日(1769年2月11日)に、先年の芋川正令の辞職もあって奉行に昇進するが、安永2年(1773年)に須田満主芋川延親が主導する竹俣当綱派排除の強訴七家騒動)に加担したために失脚し、千坂同様に石高半減、隠居・閉門処分となる。色部家家督は弟の至長が相続する。安永4年7月3日(1775年7月29日)に閉門を解かれる。

脚注編集

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  1. ^ なお、徳川宗勝が重定の宥め役になったとするのが一般的だが、宗勝はこの返答よりも前の宝暦11年(1761年)に死去している。

参考文献編集