芳賀幸四郎
芳賀 幸四郎(はが こうしろう、1908年1月25日 - 1996年8月6日)は、日本史学者[1]。東京教育大学名誉教授。東山文化研究の第一人者。また、禅を極め、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師でもあった。庵号を「如々庵」(にょにょあん)、道号を「洞然」(とうねん)。
![]() 1952年 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1908年1月25日![]() |
死没 | 1996年8月6日 (88歳) |
出身校 | 東京高等師範学校 |
子供 | 芳賀徹 |
学問 | |
研究機関 | 東京教育大学 |
経歴編集
1908年、山形県寒河江に生まれる。1926年、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に合格したが、1927年山形の連隊に入隊、小学校の訓導となり、山形県女子師範を卒業したばかりの藤田洋子と知り合い、キリスト教会に通った。1928年、東京高等師範学校入学。
1930年、洋子と結婚するが、マルクス主義に染まり、1931年2月、検挙されるが不起訴処分、退学を命ぜられて山形に帰った。長男でのちの東大教授・芳賀徹が生まれたのはこの5月である[1]。定職がなく、山形高校を受験したが、前歴のため不合格となった。1934年、東京高等師範学校に復学。1935年、東京高等師範学校を卒業。卒業後は山形県の鶴岡中学校に勤め、家族で鶴岡市に転居、夫人は小学校で教えた。
1938年、東京文理科大学国史科入学、翌年夫人は山形市の実家に二子を置いて上京し小学校に勤務した。1941年、卒業、そのまま助手として残り、二子を引き取った。同じく国民精神文化研究所協力機関日本文化協会の研究生となり、マルクス主義批判の研究を始めた。1944年に講師昇進の話があったが、思想的経歴のために認められなかった。1945年、最初の著書『東山文化の研究』を上梓。
戦後、1946年に東京文理科大学講師となる。1950年より助教授。1964年からは文学部教授となった。1971年に定年退職し、名誉教授となり、大東文化大学文学部教授を1981年まで務めた。
学問業績編集
専攻は中世史と禅で、原勝郎の衣鉢を継いで中世公家文化を研究、『三条西実隆』のほか、歴史教科書を数多く書いている。禅においては、在家のまま本格の修行をする「人間禅」の師家。その著作は『芳賀幸四郎歴史論集』全4巻としてまとめられた。
受賞・栄典編集
禅の修行歴編集
禅を極め、臨済宗妙心寺派系の法を修めた。庵号を如々庵(にょにょあん)、道号を洞然(とうねん)。自ら一行物の墨蹟を数多く残すとともに、老師として禅語の解説書も著わした。
著書編集
単著編集
- 『東山文化の研究』河出書房、1945
- 『近世文化の形成と伝統』河出書房、1948
- 『日本史新研究』池田書店、1950
- 『日本のれきし』偕成社、1956
- 『中世日本の形成』弘文堂、 1956
- 『中世禅林の学問および文学に関する研究』日本学術振興会、1956
- 『大学受験日本史演習 テーブル式』評論社 1960
- 『三条西実隆』吉川弘文館(人物叢書)1960
- 『東山文化』塙書房、1962
- 『学研中学歴史』学習研究社 1962
- 『千利休』吉川弘文館(人物叢書)1963
- 『禅入門 現代の危機をすくうもの』芳賀洞然 講談社、1963(ミリオン・ブックス)
- 『安土桃山時代の文化』至文堂(日本歴史新書)1964
- 『群雄のあらそい 室町・戦国時代』偕成社(少年少女日本の歴史)1967
- 『精説日本史研究』中教出版 1969
- 『禅語の茶掛一行物』淡交社、1973
- 『禅語の茶掛一行物』続 淡交社、1974
- 『禅語の茶掛一行物』続々 淡交社、1977
- 『わび茶の研究』淡交社、1978
- 『文人書譜 5 沢庵』淡交社、1979
- 『芳賀幸四郎歴史論集』全4巻 思文閣出版、1981
- 『禅語の茶掛一行物 又続』淡交社、1984
- 『禅語の茶掛一行物』又又 淡交社、1989
- 『一行書のよみかた』世界文化社、1994(家庭画報特選)
- 『五灯会元鈔講話 中国禅界の巨匠たち』芳賀洞然 淡交社、1996
- 『新版一行物 禅語の茶掛〈上巻〉』『同〈下巻〉』淡交社、1996
- 『禅の心・茶の心』たちばな出版、1996
- 『茶席の一行』世界文化社、1998
編著編集
- 日本人名辞典 岩崎書店、1957
- 日本史辞典 岩崎書店、1957
- 京の禅寺 太田博太郎、玉村竹二共著 淡交新社、1961
- 日本史の教室 藤木邦彦共編著 吉川弘文館、1965
- 大徳寺と茶道 淡交社、1972
記念論集編集
- 日本社会史研究 芳賀幸四郎先生古稀記念論文集編集委員会 笠間書院、1980
- 日本文化史研究 芳賀幸四郎先生古稀記念論文集編集委員会 笠間書院、1980