荻野貞行
荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 1979年10月4日)は、日本のプロボクサー。日本プロボクシング草創期の強豪。技巧派の名選手であり、後には指導者としても活躍するなど、ボクシング界に対する幾多の貢献から、“日本ボクシングの母”とも呼ばれることがあった。
来歴編集
群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)の出身。立教大学在学中から創設間もない日本拳闘倶楽部でボクシングを学び、横山金三郎、田中禎之助、久場清らと共に「四天王」と称される。スピードと技巧を駆使して草創期のリングで活躍、1922年には日本拳闘倶楽部公認の日本ジュニアフェザー級チャンピオンとなった。
後に師範となり、佐藤東洋、木村久ら名選手を育てたほか、1934年には評論家郡司信夫と雑誌『ボクシング・ガゼット』を創刊したり、ボクシングジム設立に携わったりと、様々な面で日本ボクシング界に対する貢献は大きい。
1926年7月、渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部と袂を分かち「帝国拳闘会拳道社(現・帝拳)」として設立。会長に田邊宗英、師範に荻野、助師範に佐藤東洋、滝沢吉助、吉本武雄、マネージャーとして後に会長となる本田明(本田明彦の実父)が参加した。
その端正なマスクから、映画の主演も果たしている(1926年製作『鉄腕』蔦見丈夫監督)。
1979年10月4日午後2時40分、心筋梗塞のため神奈川県葉山の葉山外科で死去。78歳