万載狂歌集』(まんざいきょうかしゅう)は、江戸時代の狂歌集。天明3年(1783年)正月刊行。故人を含めた232人の748首を集める。17巻。編集者は四方赤良朱楽菅江。刊行者は須原屋伊八。

書名は千載和歌集のもじり。部立も千載和歌集にならう。この狂歌集が以後の江戸狂歌の隆盛をまねいた。

出版経緯

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明和年間から狂歌が流行し、内山椿軒の下で唐衣橘洲四方赤良らが和歌・狂歌を学んだ。明和6年から橘洲の家で狂歌会が開かれ、赤良、平秩東作元木網、その妻の智恵内子、本屋の浜辺黒人らが集まった[1]。 天明に入り、浜辺黒人が『初笑不琢玉』『栗野下風』などの狂歌集の出版をした。それが橘洲や赤良を刺激した。

天明2年に橘洲、東作、木網らが69人840首からなる『狂歌若葉集』の出版を予定。それに対し赤良は、橘洲らの上品な読みぶりに同意せず、大胆奇抜な歌風で、古来の名狂歌もふくめ、主題別に狂歌集を編集した。それが『万載狂歌集』である[2][3]

『狂歌若葉集』と『万載狂歌集』は同じ天明3年正月に出版され、後世に大きく影響したのは後者となった。2年後の天明5年には続編となる『徳和歌後万載集』が赤良、蜀山人編集により刊行され、天明の狂歌の作風が確立された。一方、橘洲は狂歌界から一時遠ざかることとなる。

部立

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1,2春 3夏 4,5秋 6冬 7離別 8羇旅 9哀傷 10賀 11,12恋 14,15雑[注釈 1] 15雑体 16釈教 17神祇

収録数の多い作家

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四方赤良55 平秩東作37 唐衣橘洲36 布留田造/平郡実柿32 朱楽菅江30 元木網28 卯雲25 山手白人19 樋口関月17 藤本由己14 臍穴主12 石田未得11 智恵内子9 浜辺黒人9 如竹8 紀定丸7 嚢庵鬼守7 軽少ならん6 志月庵素庭6 峰松風6 など[4]。よみ人知らず37

代表的な作家と歌

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雄長老(1535-1602) 本名永雄英甫 南禅寺の禅僧
いつはりのある世なりけり 神無月貧乏神は身をもはなれぬ(冬6-263)
本歌:いつはりのなき世なりけり 神無月誰がまことより時雨そめけむ(藤原定家
本歌:いつはりのなき世なりせば いかばかり人の言の葉うれしからまし(古今集・読み人知らず)
歌意:神無月(10月)は神様が出雲に行くはずなのに、貧乏神は離れてくれない。
松永貞徳(1571-1653)貞門派俳諧の祖 下記は巻頭歌
さほ姫のすそ吹返し やはらかなけしきをそゝと見する春風(春1-1)
歌意:春の女神佐保姫に春風が吹く。裾がひるがえってやわらかな景色が見える。
石田未得(いしだみとく 1587-1669)本名又左衛門 両替商
山人は冬ぞひもじさまさりけん あえ物草もかれぬと思へば(冬6-274)
本歌:山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば(源宗于
追記:『蜀山先生狂歌百人一首』(1843年)の替歌も有名。「山里は冬ぞさびしさまさりける やはり市中がにぎやかでよい」
布留田造/平郡実柿(寛文年間1673頃没か)本名池田正式 大和郡山藩士
ほとときすなきつるかたをながむれば ただあきれたるつらぞのこれる(夏3-110)
本歌:ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる(後徳大寺実定
追記:他の替歌として、『万代狂歌集』(1812年)に四方赤良作「ほととぎす鳴きつるあとに あきれたる後徳大寺の有明の顔」
樋口関月 秋山玉山(1702-1763)と交友があった事以外は不明
八はしを見んと思へど 高いびきかきつばたにて跡になり平(旅8-336)
出典:伊勢物語8段
歌意:業平がかきつばたの歌を詠んだ八橋を見ようと思ったが、駕籠の中で眠って過ぎてしまった。
白鯉館卯雲(はくりかんぼううん 1708-1783)本名木室朝濤(きむろともなみ) 幕臣
さびしさに抱えていとまやりにくし 火桶は老の妾同然(冬6-264)
歌意:火桶は老人にとって妾同然。ずっと抱えていたい。
元木網(もとのもくあみ 1724-1811)本名渡辺正雄 画名高嵩松 湯屋
吹く風に虱(しらみ)こぼれて をみなへし落にきとても人にたかるな(秋4-182)
本歌:名にめでてをれるばかりぞをみなへし 我落ちにきと人に語るな(僧正遍昭
歌意:しらみよ、風に吹かれて落ちても人にたかるな。
平秩東作(へづつとうさく 1726-1789)本名立松懐之 馬宿・煙草屋
そしてまた おまえいつきなさるの尻 あかつきばかりうき物はなし(恋11-416)
本歌:有明のつれなくみえし別れより あかつきばかり憂きものはなし(壬生忠岑
歌意:夜明けに遊女は、またいつ来てくれるのと言う。さるの尻のように真っ赤な言葉を。
山手白人(やまてのしろひと 1737-1787)本名布施胤致(ふせたねよし)幕臣
さかづきを月よりさきにかたぶけて まだ酔ひながらあくる一樽(夏3-133)
本歌:夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ(清原深養父
歌意:月が傾くより先に杯を進め、酔いながら一樽あけた。
算木有政 ( -1794)本名羽倉訓之 魚商?
いただくや3合4合7合と 段々のぼるふじのさかづき(雑14-571)(『狂歌若葉集』にも重撰)
歌意:3合4合..と酒をいただこう。富士の坂を3合4合..と登るように。
朱楽菅江(あけらかんこう 1740-1799)本名山崎景貫 幕臣
南無阿弥陀ふつとさとりし発心に鬼もさっそく滅無量罪(釈教16-723)
出典:一念弥陀仏即滅無量罪(『一遍上人語録』)
歌意:南無阿弥陀仏とふっとさとると鬼も無限の罪から救われるという。
花道つらね(1741-1806)市川團十郎 (5代目) 歌舞伎役者
たのしみは春の桜に秋の月 夫婦なかよく三度食ふめし(雑14-600)
解説:この歌は幕末の橘曙覧独楽吟52首につながる。(例:17首目「たのしみはまれに魚にて児ら皆がうましうましといひて食ふ時」)
唐衣橘洲(からごろもきっしゅう 1744-1802)本名小島謙之 田安家家臣
月見酒 下戸と上戸の顔見れば 青山もあり赤坂もあり(秋5-223)
歌意:月見酒をする人々の顔を見ると(悪酔いの)青い顔や赤い顔がある。
四方赤良(よものあから 1749-1823)本名大田覃(ふかし) 別号南畝。幕臣 この狂歌集の主編者。後年蜀山人と号する。
あなうなぎいづくの山のいもと背を さかれてのちに身をこがすとは(恋12-496)(『狂歌若葉集』にも重撰)
本歌:来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ(藤原定家
歌意:裂かれる男女のように、うなぎも背をさかれて身をこがすとは。
鹿津部真顔(しかつべのまがお 1753-1829)[注釈 2]本名北川嘉兵衛 汁粉屋
しら雪のふる借銭の年つもり はらはで家も横にねにけり(冬6-283)
歌意:雪と借金がつもり、家が傾いた。借金は踏み倒そう。
加保茶元成(かぼちゃのもとなり 1754-1828)本名村田市兵衛 吉原大文字屋の店主
いつのまにか色づきそめしほおづきを 人のちぎらんことをしぞ思ふ(恋12-472)
歌意:ほおずきのようにいつのまにか色づいた娘を、人が契るのだろうな、惜しいなあ。
青陽 ( -1820)本名浅山芦国 浮世絵師
ありあひの小さく見えし茶碗より 盃ばかりよきものはなし(雑14-569)
本歌:有明のつれなくみえし別れより あかつきばかり憂きものはなし(壬生忠岑
歌意:酒よりよいものはない。
遊女たが袖 吉原大文字屋の遊女。天明4年土山宗次郎に身請けされた。
わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき(恋12-489)
本歌:多摩川にさらす手作りさらさらに 何ぞこの児のここだ悲しき(万葉集・東歌)
歌意:忘れたいのに、あの人からいただいた紙入れを見るとますます人恋しい。
紀野暮輔 詳細不明
見わたせば金もおあしもなかりけり 米櫃までもあきの夕暮(秋4-196)
本歌:見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮(藤原定家
歌意:金も銭も米もない。
(読み人知らず)
おふじさん雲の衣をぬがしゃんせ 雪のはだえが見とうござんす(雑14-532)
歌意:富士山よ、雲が晴れてほしい。おふじさん、衣を脱いでほしい。

脚注

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注釈

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  1. ^ これは明らかに不注意による13巻の表示落ちなので、後世の出版では 13,14巻が雑歌 と編集される場合がある。
  2. ^ 鹿津部真顔と並んで寛政年間に狂歌四天王と呼ばれた銭屋金埒頭光宿屋飯盛 の3人は、作品が収録されたのが『徳和歌後万載集』以後で、『万載狂歌集』には入選してない。

文献

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  1. ^ 大田南畝 奴師労之(やっこだこ) (日本随筆大成第2期14に収録)
  2. ^ 浜田義一郎 天明三狂歌集の成立に就いて (江戸文芸攷 岩波書店 昭和63年 に収録)
  3. ^ 石川了「近世韻文の力:-天明狂歌を中心に-」『日本文学』第60巻第10号、日本文学協会、2011年、22-29頁、doi:10.20620/nihonbungaku.60.10_22ISSN 0386-9903NAID 130005665375 
  4. ^ 石川了「天明狂歌・狂文作者索引総覧稿 その一」『大妻国文』第31号、大妻女子大学、2000年3月、63-81頁、ISSN 02870819NAID 110000127684