総構え
総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。
概要
編集日本では異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどから、大陸に見られるような城壁都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展した。
近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。また総構えの堀は総堀(惣堀)と言うが、外堀と言われることも多い。ただし単に外堀と言った場合は、総構え堀を指す場合と本城の外側の堀を指す場合とがある。
後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった[注 1]。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、大坂冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。
総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ3m、幅10m程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えていた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余(22.4km)にも及んだ[注 2]。
-
姫路城総構えと街道沿いの町割り。文化3年(1806年)。
-
福岡城の曲輪分界図
最古の遺構
編集現在判明している総構えの最古の遺構は、兵庫県伊丹市にある有岡城(伊丹城)趾で、国指定の史跡[3]となっている[4]。有岡城は、南北朝時代に伊丹氏により築城され伊丹城と称したが、天正年間に荒木村重により改修され総構えとなり有岡城と改称した。しかし10年ほどで廃城となっている。
尚、文明15年(1483年)に築城が始まった山科本願寺も巨大な土塁と水堀を用いて寺社町を囲う壮大な総構えを有しており[注 3]、これを最古とする説もある。
-
文禄年間に伊丹の姿を描いた絵図
-
現代の伊丹市の地図における総構えの範囲
主な総構えの城
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 小田原城の惣構について、西股総生は、 全体として集落の囲い込みよりも防御上の合理性に基づいて設定されたと評価している。板橋の宿(中世東海道の宿)が惣構のラインからは除外される一方、城の東方は惣構を山王川のラインまでに設定しているが、山王川と城中心部との間にひろがる平野部に集落が密集しているとは考えにいことによる[1]。
- ^ 「御土居」は、土塁とともに堀が構築されていた。土塁と堀の幅は各々約20mであった[2]。
- ^ 山科本願寺は外郭線を三重にめぐらし、本願寺を核に求心的な構造をなしていた[5]。
- ^ 小岩嶽城(現・長野県安曇野市にある山城)には山麓部を囲繞する空堀(幅約15m・深さ約7m)がある[14]。
出典
編集- ^ 西股2003、27-29頁
- ^ 中村2003、316頁
- ^ 1979年12月指定。『図説 中世城郭事典 三』p.36
- ^ 『夢路を追って~官兵衛と村重~摂津⇔姫路』神戸新聞 2014.05.02 朝刊 20頁 西播
- ^ 福島2003、327頁
- ^ 小笠原2016、268頁。"1991 平成3 会津若松城総構に蒲生氏郷時代の大型障子堀 天正18年小田原合戦後"
- ^ 石田2009、78頁。"伊達政宗は、桧原に桧原城築き、城下町を取り囲むように、直線的な外構を構築した。土塁と堀、外桝形の虎口が築かれている。"
- ^ 柴田2003、321頁。"本佐倉城(千葉県印旛郡酒々井町)(中略)惣構ライン上に砦群を配置"
- ^ 柴田2003、321頁。"臼井城(千葉県佐倉市)(中略)惣構ライン上に砦群を配置"
- ^ 西股2003、28頁。"岩槻城の惣構は、現在では市街地の中にごく一部を残すのみだが、戦前までは「岩槻の金屏風」と俗称される雄大な土塁が良好に遺存していた。"
- ^ 西股2003、19-20頁。"埼玉県所沢市の滝ノ城も、長大な外郭線を有している。(中略)想定される敵主攻正面は北東方であり、そうした軍事的状況に対応するように外郭線が設定されている。この外郭線には数カ所に横矢の折れがあり、東面には横矢に援護された馬出も備えたらしい。(中略)技巧を駆使しているのは、広大な台地続きに対して防御線が長くならざるをえないことへの対処、と理解できる。"
- ^ 岡田2008、35頁。"御茶ノ水の巨大な総構"
- ^ 小笠原2016、267頁。"1986 昭和61 小田原城北縁総構竜土院裏の発掘で障子堀確認 惣構障子堀の初見"
- ^ 三島2000、69-71頁
- ^ 髙田2003、66頁。"①外郭の堀・土塁は長良川沿岸部を除いてほぼ直線的なラインである。②外郭南側の端部は「権現山」裾部で終わっている。"
- ^ 福島2000、321頁。"松ノ木城の「外構」「惣構」"
- ^ <天正一二年>三月一三日付、羽柴秀吉書状『加越能古文叢』四一。"金沢之惣構"
- ^ 中井2008、29頁。"豊臣秀吉の大坂城の構造(中略)本丸の外周に二の丸、三の丸が配され、さらにその外周は広大な総構となっていた。"
- ^ 宮田2008、50-53頁。"西国将軍となった池田輝政の築いた姫路城は、長期の籠城も可能として町屋や寺町全域を外堀で囲い込んだ総構の城である。"
- ^ 徳永2016、259頁。"松江城下町遺跡の障子堀は、外堀のさらに外側に位置する"
- ^ 木島2004、152頁。"萩城(中略)惣構:三ノ丸⑤を巨大な土塁・で固めた惣構とし、大身家臣団屋敷を包摂。外辺部曲輪⑥に町屋地区・中下級家臣団屋敷を包摂し、三ノ丸⑤と共に整備った(ママ)街区で集約化"
- ^ 髙田2019、128頁。"丸亀城跡東方の外堀跡" 髙田2019、138頁。"丸亀城南部の外堀跡と土塁"
- ^ 小笠原2016、268頁。"2004 平成16 小倉城(北九州市)外堀(総構)で障子堀検出 天正18年小田原合戦後"
- ^ 木島2004、147頁。"福岡城(中略)惣構:堀・土塁で構築した外郭を持つ。中には整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
- ^ 木島2004、148頁。"柳川城(中略)惣構:堀・土塁で構築された巨大な惣構を持つ。その中には整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
- ^ 木島2004、151-152頁。"府内城(中略)惣構:堀・土塁で構築した巨大な構の中に、整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
- ^ 中村2017、148頁。"豊前中津城(惣構え)(中略)『豊前中津之城圖』に描かれている要素から少なくとも図中の「惣構え」は寛永3年以前と推測できる。さらに古くならないものであろうか。"
- ^ a b 北郷1995、217頁。"「遠構」として外郭ラインを掘りきる遺構が存在し、山田町山田城では主郭を中心とした曲輪を大きく取り囲む形で一、三㎞に及ぶ堀が設定され、また都城市安永城郭跡では主郭から一㎞以上遠く離れた台地のくびれ部に堀を設ける例も見られる。"
参考文献
編集- 北郷泰道「日向の中世城郭」『中世城郭研究』第9号、中世城郭研究会、1995年、214-217頁、ISSN 0914-3203。 - 第11回全国城郭研究者セミナー(1994年8月6日開催)における同氏の報告の要旨。
- 三島正之「信濃 小岩岳城」『中世城郭研究』第14号、中世城郭研究会、2000年、62-81頁、ISSN 0914-3203。
- 福島克彦「文献史料からみた「惣構」について:戦国・織豊期を中心に」『中世城郭研究』第14号、中世城郭研究会、2000年、316-325頁、ISSN 0914-3203。
- 西股総生「城の外にひろがるもの」『中世城郭研究』第17号、中世城郭研究会、2003年、4-42頁、ISSN 0914-3203。 - 第19回全国城郭研究者セミナーにおける同氏の報告「遮断線構造からみた中世城郭の外帯部施設」を論考化したもの。
- 髙田 徹「岐阜城について」『中世城郭研究』第17号、中世城郭研究会、2003年、44-76頁、ISSN 0914-3203。
- 八巻孝夫(編)「第十九回全国城郭研究者セミナーの報告」『中世城郭研究』第17号、中世城郭研究会、2003年7月、290-343頁、ISSN 0914-3203。
- 中村武生「「惣構」の変容:京都・御土居堀を中心に」『中世城郭研究』第17号、314-320頁。 - 第19回全国城郭研究者セミナーにおける同タイトルの報告要旨。
- 柴田龍司「「惣構」成立の歴史的背景 : 南関東を事例として」『中世城郭研究』第17号、321-322頁。 - 第19回全国城郭研究者セミナーにおける同タイトルの報告要旨。
- 福島克彦「「惣構」と外郭線 : 城郭研究と都市論」『中世城郭研究』第17号、323-328頁。 - 第19回全国城郭研究者セミナーにおける同タイトルの報告要旨。
- 木島孝之 (1 August 2004). 近世初頭期西南域大名領における城郭の様相. 第21回全国城郭研究者セミナー. 中世城郭研究会主催. pp. 63-160(レジメ). 2020年9月5日閲覧。
- 村田修三総監修 著、八巻孝夫ほか 編『日本名城百選』小学館〈ビジュアル・ワイド〉、2008年。ISBN 978-4096815649。
- 石田明夫 (2 August 2009). 南奥羽における城郭の変遷. 第26回全国城郭研究者セミナー. 中世城郭研究会主催. pp. 74-81(レジメ). 2020年9月5日閲覧。
- 八巻孝夫(編)「第三十二回全国城郭研究者セミナーの報告」『中世城郭研究』第30号〈特集・「障子堀」の新展開〉、中世城郭研究会、2016年7月、180-280頁、ISSN 0914-3203。
- 徳永桃代「松江城下町遺跡における障子堀の様相」『中世城郭研究』第30号、256-261頁。 - 第32回全国城郭研究者セミナーにおける同氏の報告の要旨。
- 小笠原清「「障子堀」甦って43年:北条技法と多様な様態事例 附 「堀障子関連略年表 2015」」『中世城郭研究』第30号、267-268頁。 - 第32回全国城郭研究者セミナーにおける同氏の報告を活字化したうえで、障子堀の確認事例を編年化した表を附したもの。
- 中村修身「城郭石垣の改築と修理について:矢穴の編年基礎作業」『中世城郭研究』第31号、中世城郭研究会、2017年、76-100頁、ISSN 0914-3203。
- 髙田 徹「近代の讃岐・丸亀城:陸軍史料の記述を中心に」『中世城郭研究』第33号、中世城郭研究会、2019年、118-140頁、ISSN 0914-3203。
関連項目
編集外部リンク
編集- 豊臣秀吉の大坂城 - ウェイバックマシン(2012年1月14日アーカイブ分)
- 彦根城・天保7年(1836)に作られた「御城下惣絵図」6幅の合成 - ウェイバックマシン(2013年7月7日アーカイブ分)
- 勢州桑名城之図
- 正保城絵図(国立公文書館 Digital Gallery) - ウェイバックマシン(2007年10月14日アーカイブ分)
- "「惣構」の再検討". 『中世城郭研究』第17号. 第19回全国城郭研究者セミナー. 中世城郭研究会主催. 2002年8月.
- "「障子堀」の新展開". 『中世城郭研究』第30号〈特集〉. 第32回全国城郭研究者セミナー. 中世城郭研究会主催. 2015年8月. NCID BB19338127。