蔭山貞広
蔭山 貞広(かげやま さだひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士・旗本。蔭山氏7代当主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 寛永14年3月25日(1637年4月20日) |
別名 | 佐介 |
戒名 | 日栄 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下・因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 蔭山氏 |
父母 | 父:蔭山氏広、母:北条氏隆娘(北条氏堯、田中泰行の娘とも) |
兄弟 | 養兄弟:於万 |
妻 | 平山政光娘 |
子 | 持広、好広、小川安則室、安藤重矩室、日養 |
生涯
編集蔭山氏は永享の乱で滅んだ4代鎌倉公方・足利持氏の遺児・広氏を初代とする家で、貞広は7代目にあたる。
天正12年(1584年)、蔭山氏広の子として誕生。父・氏広は北条氏直に仕えたが、天正18年(1590年)の小田原征伐によって後北条氏が滅亡したために蟄居していた。
貞広は徳川家康に召されて小姓として出仕し、後に武蔵国児玉郡に1,000石を与えられる。慶長20年(1615年)、2代将軍・秀忠に従って参内し、従五位下・因幡守に叙される。それまで蔭山氏は紀氏を本姓としていたが、この時に源氏に復姓している。後に書院番に転じ、寛永10年(1633年)常陸国鹿島郡に200石の加増を受けて計1,200石を領した。
出典
編集- 『寛政重修諸家譜』