藤原組
歴史編集
1991年1月、選手会主体で再発足した第2次UWFであったが経営方式を巡って、所属選手とフロントの対立が原因で解散。その中でも前田日明に距離を置いていた選手が中心に集まり、どこの派閥にも属していなかった藤原喜明が、その若手選手達を活かせてやりたいと新たなプロレス団体を設立することを発表[1]。3月4日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。設立当初の団体名は新UWF藤原組(しん・ユー・ダブリュー・エフ・ふじわらぐみ)と称した後に団体名をプロフェッショナルレスリング藤原組(プロフェッショナルレスリングふじわらぐみ)に改称。UWFでレフェリーおよび渉外を担当していたミスター空中が藤原組の渉外を担当したため、UWF時代に来日していたアメリカのレスラーがそのまま藤原組の興行に出場する事になった。
メガネスーパーがメインスポンサーとなり、同社代表取締役会長の田中八郎が代表取締役社長を務めていたSWSとの合同興行も開催したが、一部の試合を除き、試合としてかみ合わず後に開催されなくなる。
1992年4月19日、東京体育館大会で船木誠勝対元ボクシング4階級王者のロベルト・デュランによる異種格闘技戦を実現させたことで話題を呼んだ。10月4日、東京ドーム大会を開催。11月、格闘技的な路線を志向する船木誠勝、鈴木みのるらと藤原の間で溝が深まる。12月、船木、鈴木、冨宅祐輔(現:冨宅飛駈)、高橋和生(現:高橋義生)、柳澤龍志、練習生の国奥道明(現:國奥麒樹真)と稲垣一成(現:稲垣克臣)が退団してパンクラスを設立することを発表[2]。
所属選手が藤原と石川雄規だけになってしまう危機に見舞われるが、逆に2人だけという状況がファンの支持を受け、外国人レスラーの招聘ルートもそのまま残っていたため、崩壊の危機を乗り越える。以降は従来のUWFを薄めつつ純プロレスに接近する路線へ転換。メガネスーパーがメインスポンサーから降りるも新人選手も次々とデビューして苦しいながらも存続させていた。
1995年、スポンサーが一部の所属選手を除き大幅なリストラを提言したことで藤原を除く所属選手全員が退団することを発表。11月19日、横浜文化体育館大会を最後に藤原を除く所属選手全員が退団。
現在はプロレス団体としては機能しなくなり藤原の個人事務所「藤原組(ふじわらぐみ)」になっている。
所属選手編集
過去の所属選手編集
過去のスタッフ編集
- ミスター空中(レフェリー、渉外担当)
- 島田裕二(レフェリー)
- 川崎浩市(メガネスーパーワールドスポーツ)(エージェント)