SWS(エス・ダブリュー・エス)、スーパー・ワールド・スポーツSuper World Sports)は、かつて日本に存在したプロレス団体

メガネスーパーが新規設立した企業「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」が運営し、天龍源一郎を中心に全日本プロレス新日本プロレスなどから選手が集められて旗揚げした団体である。

1990年5月に新団体として旗揚げしたが、1992年6月をもってプロレス団体としての活動を停止した。

概要 編集

メガネスーパーの豊富な資金力を元に、既存するプロレス団体から選手・スタッフの引き抜き工作を行って新たな団体を旗揚げし、当時の「黒船」的存在としてプロレス界に大きな衝撃と激震を巻き起こした。SWS旗揚げ以前から(第2次)UWFなどへの大会後援で活動しており、1989年に水面下で異業種からのプロレス団体参画へ向けて動き出していた。早期からメガネスーパーの意を受ける形で海外のプロレス事情を視察するとともに、水面下で選手の獲得交渉に携わっていた中心人物として若松市政が挙げられる。

1989年、アメリカのWCWに参戦していた新日本プロレス(当時)所属のグレート・ムタ武藤敬司)をエースとする構想で、サーキットを共にしていたケンドー・ナガサキ(桜田一男)を通じてアプローチをかけたが[1]、武藤を獲得することは出来なかった[注釈 1]。武藤に代わるエース選手候補として藤波辰巳の獲得案も浮上していたとされる。

1990年、最初に新日本プロレスからの引き抜きを開始し、ジョージ高野佐野直喜がこれに応じて新日本を退団した後、SWSに入団[1]。4月にはエース候補として全日本プロレスを退団した天龍源一郎の獲得に成功する。また当時、全日本が提示していた複数年契約に難色を示した所属選手も全日本を退団し、SWSに相次いで移籍する[1]。ただし谷津嘉章を筆頭に、全日本や肖像権を管理する日本テレビとの契約期間中にもかかわらずSWSへ離脱した選手が存在しており、契約違反となった選手に関して全日本は後に法的措置を取っている。その結果、全日本プロレスから多くの選手・スタッフを引き抜いた形で集められた。

SWSはこれまでのプロレス団体と違い、選手達に高額な給料を支給していたことでも知られる。特に団体のエースでトップの天龍源一郎は当時、日本のプロ野球選手で最高額年俸だった中日ドラゴンズ落合博満選手並みの高給であったという[2]

1990年9月29日、天龍の出身地でもある福井県福井市体育館において「越前闘会始」のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、後に横浜アリーナ10月18日10月19日の両日に『闘会始'90』と銘打って正式な旗揚げ戦が行われた[3]。旗揚げ戦はテレビ東京で録画中継され、木村匡也ディスクジョッキー口調で実況を担当した[注釈 2]。その後はWOWOWの方で1991年3月から1992年3月まで1年間、月1回の割合で放送されていた。

SWSは大相撲で運用されていた『部屋別制度』をプロレス団体に導入する形で、今までのプロレス業界に存在しなかった画期的なシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場・檄』、ジョージ高野率いる『パライストラ』の計3部屋が置かれた[3]

しかしこの『部屋別制度』が次第に団体内部で派閥争いを招く温床にも繋がり、SWSのエースである天龍源一郎率いる『レボリューション』と、それ以外の2部屋との間で主導権争いが生じてしまった[3]

他にも1991年4月1日の神戸ワールド記念ホール大会で、レボリューション所属の北尾光司ジョン・テンタとのシングル戦の試合後に自らマイクを持ち、対戦相手のテンタに向かって『八百長』発言を連呼するという[注釈 3]前代未聞の不祥事を起こした。この『八百長』発言が後にSWS内だけに留まらずプロレス界でも大問題となり、最終的に北尾がSWSを解雇される事態となった[注釈 4]。これらのトラブルが続き、更に興行の不振も重なり短期間でSWSは崩壊した。

崩壊後は引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした「レボリューション」所属選手主体のWARと、反天龍派の「道場・檄」と「パライストラ」所属選手主体のNOWの2つに分裂した[4]

約2年弱で崩壊したSWSだが、それまで他団体が実施しなかった道場を解放しての「道場マッチ」を500円という低価格での開催や、その後の日本プロレス界の演出として定着する「一本花道」の採用、またWWF(現:WWE)との提携でスター選手の招聘を実現するなど[注釈 5]、画期的で斬新な試みをいくつか行った。一般企業を親会社に据え、その子会社としてプロレス団体を機能させる経営スタイルは当時としては珍しく「企業プロレス」と称されたが、後に複数のプロレス団体が株式譲渡などによる運営会社の子会社化を図っている。

歴史 編集

この節の出典[5][4][6]

1990年 編集

  • 4月26日、天龍源一郎が全日本プロレス社長のジャイアント馬場と会談。辞意を了承され退団し、メガネスーパーが興す新団体参加の意向を明らかにする。
  • 4月27日、新日本プロレス所属のジョージ高野佐野直喜の2人が大会を欠場したことにより、両選手の新日本脱退が表面化。
  • 5月7日、新日本プロレスを退団したジョージ高野が、新団体に参加する意向を表明。
  • 5月10日、東京・ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長・富永巽総務部次長・天龍源一郎が記者会見し、SWSの発足を発表。
  • 5月15日、若松市政の入団と道場主就任を発表。
  • 6月5日、ジョージ高野の入団と道場主就任を発表。
  • 6月27日、新横浜仮道場完成披露パーティーで、ケンドー・ナガサキ鶴見五郎片山明が所属選手として出席。
  • 7月2日、全日本プロレスを退団したサムソン冬木高野俊二ほか5名の入団を発表。
  • 7月11日、石川敬士の入団を発表。
  • 7月12日・13日の2日間、第1回SWS新人オーディションを開催。元新日本プロレスの大矢健一、元全日本プロレスの平井伸和ら6名が合格。
  • 8月7日、全日本プロレスを退団したザ・グレート・カブキ谷津嘉章の入団および、元全日本プロレスの渉外部長であった米沢良蔵の取締役就任を発表。
  • 8月23日、アメリカから帰国した元新日本プロレス・佐野直喜の入団を正式発表。
  • 8月29日、大相撲七月場所終了後に力士を廃業した維新力の入団と、新倉史祐のフリー参戦を発表。
  • 8月30日、事業概要発表会披露パーティーがホテルオークラで行われ、3道場の正式名称と選手の振り分けを発表。
  • 9月29日、福井市体育館でプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催。
  • 10月16日、ドン荒川の入団を発表。
  • 10月18日と19日の両日、横浜アリーナで旗揚げ2連戦を行う。
  • 10月21日、テレビ東京が横浜アリーナ2連戦の模様を録画放映。
  • 11月1日、新日本プロレスを退団した北尾光司の入団を発表。
  • 11月10日、新横浜仮道場で道場マッチ『登竜門』を開催。この日を含めて計5回開催された。
  • 11月20日、WWFとの2年間の業務提携締結を発表。

1991年 編集

  • 1月22日、無断欠場が続いていた高木功を解雇。
  • 2月14日、週刊プロレスに対して取材拒否通達書を発送。
  • 2月24日、第2回新人オーディション開催。安良岡裕二・中原敏之が合格。オーディションとは別に川畑輝ら2名の入団を発表。
  • 3月13日、同じくメガネスーパーがスポンサーの新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)と業務提携を結んだことを発表する。
  • 3月24日、提携先のWWF主催「レッスルマニアⅦ」に天龍と北尾が参戦。タッグマッチでデモリッションと対戦して勝利。レッスルマニアシリーズで初の日本人レスラーによる試合となる。
  • 3月30日、WWF・東京ドームとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催。藤原組が初参戦。この大会からJBS(WOWOW=日本衛星放送)による放映が開始される。
  • 4月1日、神戸ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催。藤原組所属の鈴木みのるとの一騎討ちでのアポロ菅原の不可解な試合放棄事件や、北尾光司対ジ・アースクェイク・ジョン・テンタ戦で北尾が暴走の末に、反則負けとなった上にマイクを持ち『八百長野郎!!』との暴言を放ったいわゆる『北尾事件』が同日に発生し、トラブルが続いた。
  • 4月4日、緊急理事会を開いた上で北尾光司のSWS「解雇」を決議。引責として天龍が道場主・理事会長・取締役の辞任届を提出(その後、慰留されて職に留まる)。
  • 7月19日、田中八郎社長が「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」社長を退任し、新社長に天龍源一郎が就任。
  • 7月23日、阿修羅・原の入団を発表(前日付での入団扱い)。
  • 7月31日、伊豆大島トレーニングジム落成式開催。
  • 8月9日、横浜アリーナにてSWS1周年記念大会『紀元一年』を開催。
  • 9月13日、川崎市麻生区に落成した本道場を披露。
  • 10月12日、文化放送でラジオ番組「激闘!SWSプロレス」放送開始。
  • 10月14日、EMLLとの業務提携を発表。これに伴い、9月にメキシコLLIからEMLLに移籍した浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)の参戦も決定。
  • 12月12日、2度目(単独では初)の東京ドーム進出。『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

1992年 編集

  • 4月17日と18日、「THE BATTLE OF KINGS」2連戦を開催。テレビ東京が録画中継。
  • 5月14日、元選手会長の谷津嘉章が記者会見を開き、その席で辞意を表明。天龍派『レボリューション』と谷津・ジョージ高野派『パライストラ』『道場・檄』の対立が表面化。
  • 5月18日、天龍派と反天龍派が真っ2つに分かれたカード編成での新シリーズが開幕。
  • 5月23日、緊急理事会を開き、7月以降の天龍派と反天龍派の2派に分かれての活動を決定。
  • 5月25日、東京全日空ホテルにおいて、23日の理事会の決定事項を正式発表。SWSとしての興行活動の休止と、天龍派(WAR)と高野・鶴見五郎派の『パライストラ』及び『道場「檄」』連合(NOW)の2団体へ分裂が決定。
  • 6月19日、長崎国際体育館大会をもって、SWSとしての興行活動を終了。
  • 6月27日、反天龍派(旧『檄』『パライストラ』)がNOWの発足を発表。
  • 6月28日、天龍派(旧『レボリューション』)がWARの設立を発表。

他団体への影響 編集

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の選手だった天龍源一郎を筆頭に、谷津嘉章などの中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた全日本プロレス[注釈 6]は一時、崩壊の噂も流れて当時の東京スポーツでも『全日本プロレス 崩壊危機』とも報じられた。しかし残留した三沢光晴川田利明小橋健太菊地毅ら「超世代軍」と、鶴田率いる田上明渕正信小川良成ら「鶴田軍」[注釈 7]との抗争を軸に据えた。

SWSへ選手が大量離脱してしまい全日本プロレスは1972年の団体旗揚げ以来、最大のピンチ到来となった。しかし全日本は残留した選手の活躍や「SWSへ移った選手達に負けるな!」と、一致団結したこともあり勢いを盛り返した。全日本プロレス社長・ジャイアント馬場は、1999年1月に死去するまで天龍を始めとするSWSへの離脱組を再び全日本のリングへ上げなかった[注釈 8]。しかし天龍の全日本への参戦は、WAR社長の武井正智が主導となって幾度か交渉をした経緯がある。その交渉の際に馬場は「全日本が困った時には頼むかもしれないけど、今はいいから」と答えていたのもあり、完全な絶縁関係ではなかった[7]

だがその一方で、馬場から天龍が全日本に上がる条件として三沢達に土下座をして謝罪する事を要求した。しかし天龍は馬場に頭を下げるのなら分かるが、三沢達に対して土下座をする事には納得が出来ず、この話は御破算になったと発言している[8]。天龍の全日本への参戦は馬場没後の2000年に、選手の大量離脱による経営危機に伴って全日本からのオファーにより実現した。なお、後に天龍は三沢をSWSへ引き抜く計画があったことを証言しており、天龍が「今の給料の倍は出せるからどうだ」とSWSに来るように話したところ、三沢は「僕は今の状態で満足ですよ」と返答しており、天龍は「酒席での話だから、このことは忘れてくれよな」と三沢に告げたという[1]

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWF長州力ら『維新軍団[注釈 9]』の離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われた過去があるため、今回の様なことにも慣れていた新日本のフロント陣は早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。同時に新日本プロレスからSWSへ離脱したジョージ高野と佐野直喜の2人に関しては、後に法的措置を取ったと同時に、星野勘太郎などのベテラン選手が新日本道場に泊まり込んで若手を監視していたという[1]

SWSは武藤敬司のほかにも、藤波辰巳の獲得も狙っていた[9]。当時新日本所属であった橋本真也は、当時週刊プロレスの取材に対して「プロレスにお金を出してくれる人のことを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えており、メガネスーパーがスポンサーとして存在したことに関しては肯定的意見を述べた[10]

第2次UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーをメガネスーパーが務めるなど、双方共に友好な関係だったため選手の引き抜きはしなかった。その縁でSWSはUWF選手の出場を図っている。後に藤原喜明の貸し出しが発表されたが、これが元となりUWF内部に選手とフロント間の関係悪化を招いてしまい、UWF崩壊の遠因を作ることになる。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原・船木誠勝鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組[注釈 10]を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうちに1週間をSWSが拘束して興行に参戦する」という予定だったが、1991年4月1日に神戸大会で発生した鈴木みのる対アポロ菅原戦での不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係は事実上凍結してしまい、両団体は数回参戦のみで終わった。

ユニバーサル・プロレスリング(前出のUWFとは異なる「ルチャリブレ」を中心とした団体)との関係では、当時ユニバーサルのエースでもあった浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)が、1991年9月にメキシコで参戦していたUWA(LLI)からEMLL(現:CMLL)に移籍した事で、日本での主戦場が同年10月にEMLLと提携したSWSへ自動的に移る事となった[注釈 11]。これに対し、ユニバーサルの代表である新間寿恒の父の新間寿(元新日本プロレス営業本部長)は「SWSによる引き抜き」と捉えて激怒し、SWSの事務所に乗り込むことを明言するなど一時関係が悪化したが、浅井のSWS参戦発表直前に仲介役を介して天龍と新間寿の直接会談が行われ、新間寿が態度を軟化させた[注釈 12]ことで浅井のSWS参戦が実現した。浅井が初参戦した同年10月29日の福岡国際センターの興行には、新間寿恒が花束を持ってリングに登場して浅井を激励しており、この後に浅井は同年11月に行われたユニバーサルの後楽園ホールの興行に「特別参戦」としてけじめを付けた後、SWS(「レボリューション」)の所属としてフル参戦(1991年12月の東京ドーム大会からは「ウルティモ・ドラゴン」として参戦)するとともに、EMLLの極東担当としてSWSに参戦するEMLL選手のブッキングの役割を果たすこととなった[11]

週刊プロレスとの軋轢 編集

SWSに対して批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」および当時編集長の山本隆司(ターザン山本)であった。山本は天龍の番記者だった『週刊ゴング』の小佐野景浩が、天龍の全日本退団などの情報を自分たちより早く得ていたことから、天龍が小佐野経由で週刊ゴングに意図的に様々な情報をリークしていたと山本は決め付け、天龍とSWSに対するバッシング報道が始まった。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った[12]。週刊プロレスが喧伝した『SWS=金権プロレス=悪』という印象は天龍の引き抜きを始め、その後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場となった。

SWSへバッシングを始めた後も、旗揚げ当初からしばらくは試合結果を始めとするSWSの情報も、正規の取材を行った上で週刊プロレスにも試合の経過を始め、メインの試合なども写真付きで普通に掲載されていた。プレ旗揚げ戦「越前闘会始」には山本隆司編集長が自ら試合会場に出向いて直接取材を行ったが、全日本プロレス時代の天龍革命のような凄みを感じられなかったことから、誌面にはSWSおよび天龍に対してネガティブな記述が次第に多くなっていく[12]

こうした状況が続いたことに「プロはお金である」というバッシングの端緒になった評に対し、週刊プロレスへ直接反論を行った天龍源一郎は「お金で動いたとはいえない」などと答え[12]、その一方で若松市政は「その『週刊プロレス』もSWSの情報を載せて下さっている。ありがたいです」と、大人の対応も示していた。

そんな中、SWSが初めて開催する東京ドーム大会の広告が週プロ誌上に掲載された。これは週プロがSWSの大会を扱ったものとしては初めて掲載したもので、広告のデザイン・レイアウトは週プロ編集部が担当した[12]。しかしこの広告のレイアウトのミスと、クレーム対応の不手際が最終的にSWSの取材拒否に結び付くトラブルに発展する。発端はファイティングポーズを取る天龍の口元の部分に「ドームに夢を見よ」というコピーの内の「夢」という文字が入ったふきだしが被さったものだったのだが、天龍の口に黒いマスクを被せるように見えたことによりSWSから週プロに直接クレームが入り、それを受けてデザインを修正する運びになった。しかし週プロ側の不手際により修正前のデザイン広告が誌面に出てしまい、この週プロの対応に対してSWSが不快感を示した。

この不手際に関して週プロは「特に意図的では無い」としたものの、SWS側は「これは悪意に満ちている」と捉えて強い不満を抱いた[12]。この広告掲載を巡るトラブルを契機に、SWSは週プロに対して取材拒否を通告する。

SWSからこの取材拒否の通告を受けて週プロは、黒色の背景に「2月15日の午後、SWS代表取締役の田中八郎氏より、取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました」と表紙に掲載され、誌面では事態の経緯と共に関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の号の誌面で「今後はSWSに関する、一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本隆司編集長の名義で回答し、双方の関係は回復することなく完全決裂した。この取材拒否はSWSの崩壊後も後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。天龍個人は団体崩壊後もしばらくの間、取材拒否が続く形となった。

また2000年の週刊プロレス スペシャル3」には、鈴木健による田中本人への単独インタビューが巻頭記事として掲載されている。田中曰く、同誌の取材に応じた理由を「プロレス界から身を引く際に、正式な挨拶が出来なかったので、改めて皆様に対して挨拶が出来ればと思いまして」とのことである。田中は当時を振り返り「引き抜きというタブーを行ったことで週プロがアレルギー反応を起こすのは承知していたが、正直悪く書かれたくなかった」「週プロさんは全日本との長い付き合いがあったことから、(自分たち)新しい団体に対して良いことを書きますってことは無い。しかし、ゴングさんとかはそういう色を出さなかった。それは編集長の見解の違いだったんでしょうね」と答え、山本の編集長としてのSWSに対する見解と姿勢には不満があったと語った[12]

なお山本は同じ「週プロSP3」誌上で「膨大な資金力のあるSWSに付く方が本来ならいいんだけどさ、敢えて自分は馬場さんを支持する側に回ったのよ。他の全てを敵に回しても、馬場さんと共に負けるほうがいいと思ったんだよね」などと語っていた[12]。しかし後年に、山本は馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSをバッシングしていたことや、SWS崩壊後に「今後週プロ誌上では、実名を上げてのバッシング活動を一切行わない」という約束の見返りとして、田中社長から1年間に渡り月50万円以上を受け取っていたことを後に暴露本で告白している[13][14]

早期崩壊の経過と原因 編集

SWSが約2年[注釈 13]という短期で崩壊した要因として、一部プロレス誌によるバッシング報道で悪い印象を与えられてしまい、その影響によりSWSはプロレスファンからの批判・反発などもあったが、それ以上に天龍派の『レボリューション』と、反天龍派である『道場・檄』『パライストラ』の2部屋との対立がかなり大きかったとされる[15]

SWSは元々が全日本・新日本・旧国際プロレス出身者が集まった寄合い所帯であり、出身団体で培ったプロレス観や思考がそれぞれ異なっていたこともあって旗揚げ当初から対立の火種を抱えていた。それでも純粋な部屋別対抗戦の域ならまだしも、実際は天龍派にマッチメイクなど団体自体の主導権を握られていた反天龍派の不信感は非常に根強かった[15]。新団体の旗揚げという始まりからすれば、3部屋は常に平等であることが理想的なのだが、マッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強かった。そのために、カブキが編成したマッチメイクには反天龍派からの不満と反感を買ってしまい[注釈 14]、これが元で天龍率いるレボリューション派への不信感・嫌悪を持たせる結果となり、派閥争いに拍車を掛ける形となった。

カブキが作成した試合編成に納得が行かない反天龍派選手の中には、田中社長に直訴することで決定事項が覆ることも少なからずあったといわれる[注釈 15]。反天龍派からの根強い抗議と反発に配慮して、天龍およびレボリューション派の選手がメインに出場する試合編成を変更し、他2部屋の選手がメイン試合に出場する編成へ組み直した。マッチメイカーのカブキはオープニングマッチ(第1試合)に力を注いでいたが、反天龍派が第1試合の出場を拒否する傾向[注釈 16]があったため、その時はカブキが第1試合に出場している。

寄り合い所帯のため各道場同士の信頼関係が希薄であり、お互いがシュートを仕掛けてくるのではないかと疑心暗鬼になっていた。そのため、反天龍派の中には天龍やカブキに対して「なぁ、今日はガチでやるのかよ」、「(シュートを)仕掛けて来たらただじゃおかないですよ」と、直接言って来た選手もいたという。

準備不足も手伝って各部屋が個別に道場を用意出来なかった点と、団体の「要」でもある本道場完成の遅れが『部屋の派閥化』傾向に拍車を掛けた。旗揚げ当時に掲げたプランニングでは、3部屋ごとに専用の道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想も練られていた。しかし当初掲げた構想計画は早期に頓挫してしまい、実際は旗揚げ時に建設された新横浜の仮道場と、SWS発足から1年以上が過ぎた1991年9月、神奈川県川崎市百合丘に総工費7億円を掛けて完成した本道場[注釈 17]を提供したに過ぎず、結局この2か所を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せず「派閥の温床」になっていた[15]

小佐野景浩著の『SWSの幻想と実像』によると、当初から天龍をエースとした団体の方針に不満と違和感を持った選手が存在し、その中には「自分は理想と思想を持ってSWSに移籍して来た。天龍をエースとして盛り上げるためにここ(SWS)に来た訳じゃないから」と、心中密かに反発している選手もいたという。

また反天龍派は、WWFとの提携[注釈 18]で発生する高額な提携料や、選手に支払うファイトマネーなども問題視しており「WWFと提携して高額な金を支払うのなら、海外のインディー団体から選手を招聘した方がファイトマネーも安く済むので、その分を自分達に還元して欲しい」と、反天龍派から不満の声が持ち上がっていた。

しかしSWSはこの時、後発団体でかつバッシングの最中という立場にもあるために「他団体(ライバルの新日本・全日本など)がやれない事を、SWSではやってみようじゃないか」という天龍の目論みもあったため、敢えて反天龍派からの不満の声を押し切り、田中社長に了承を得た上でWWFと提携する決断をした。しかしその天龍の考えと反天龍派との見解の相違が大きかったため、両者との不信感と確執を生むきっかけとなった。

また旗揚げ前の構想では、3部屋がそれぞれ単独で興行を行って年に数回に渡り、部屋合同の対抗戦を開催する予定であったが、SWSがバッシングの最中でもあり「レボリューション派以外の2部屋が単独興行をした所で、観客が集まらないだろう」と難色を示し、結局3部屋での合同興行となった。しかしレボリューション派からすると他の部屋が泣き付いて来たにもかかわらず、再び反発するという身勝手な行動と捉えていたため、さらに天龍派・反天龍派との確執が深まる結果となった[注釈 19]

91年4月1日の「北尾事件」以降は、マッチメイク補佐役として『道場・檄』から谷津嘉章、『パライストラ』からドン荒川がそれぞれ新たに就任した。合議制を取ることで各部屋の意向をある程度反映出来る様に改善された。道場対抗戦では普段見られないタッグも組まれ[注釈 20]、選手間との関係が良好となり派閥解消かと思われた[注釈 21][注釈 22]。しかし、部屋同士の対立は相変わらず継続しており、派閥解消には程遠く確執は深まる一方となった。そして1992年5月14日、選手会長だった谷津嘉章の記者会見上で突然の「選手会長辞任・SWS退団」発言により、一気に対立が表面化する形となった[15]

谷津が記者会見を行い、SWSの社長かつエースである天龍を公然と批判したことで天龍派と反天龍派との派閥解消・関係修復は事実上不可能となり、この記者会見以降はSWS崩壊まで対抗戦を一切組まず[注釈 23]、天龍派と反天龍派が単独で組んだ試合カードを出し合って編成した[注釈 24]。マッチメイカーは天龍派の石川敬士・反天龍派の鶴見五郎がそれぞれ就任し、お互いに編成した対戦カードを照合して試合を組んだ。

このような混沌とした異常事態の中で、SWSでは今後この様な状況で団体運営を続けるのは難しいと判断し、8月に予定されていた興行をキャンセルするなど団体としての幕引きへ向けて水面下で動きが進行していた。

5月22日の後楽園ホール大会では、興行開始前に内部混乱を招いた責任を取る形で谷津と同調する仲野信市の2人が、辞表を手にSWSからの「引退」を表明した。なおこの時に谷津と行動を共にしたのは仲野1人のみで、他の反天龍派の選手は同調せず[注釈 25]、引退はこの2人のみだった。また谷津はこの騒動に対し、プロレスマスコミが事情を知らず勝手に「谷津がSWSからの退団・引退を表明」などと憶測で書き立てたことに不満を抱いており「自分がこれまで言って来た主張をマスコミはちゃんと報じていないじゃないか。もう引退って書いちゃっていいよ」と、半ば苛立ちながらマスコミを批判していた。

当時のファンやプロレスマスコミは天龍源一郎とレボリューション派の選手を擁護する声が多くを占めており、会見の席で天龍やSWSを批判した谷津嘉章を始め反天龍派の選手達は厳しく非難された。同大会で組まれた谷津・仲野の「SWS引退試合」では、観客の執拗な野次や激しいブーイングに終始する異常な雰囲気となる[注釈 26]。試合終了後は拍手すらなく、谷津はSWSとこれまで応援してくれたファンへ感謝と別れの意味を込めて自身が着ていたジャージを脱いで客席に投げ込んだものの、逆にそれを観客から投げ返されてしまうなど、この一件に関してファンの反応は非常にシビアだった[16]

翌5月23日にSWSでは事態収拾のため、取締役を含めた役員が出席して緊急理事会を招集。この会議でSWSの団体活動休止を決定し、正式な記者会見は2日後の25日に行われた。天龍派は「レボリューション」を母体に「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を、反天龍派は「NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)」をそれぞれ設立した。メガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったが、その援助も継続的ではなく『期間限定』という形となり、WARには2年間・NOWには1年間のスポンサー料提供で終了した。

NOWのプレ旗揚げ戦(8月9日)から1ヶ月後の9月10日に発売された『週刊文春』誌上で、ジョージ・俊二の高野兄弟による「俺たち、メガネスーパーに騙された」との見出しが付けられ、これまでによるSWS騒動の顛末と、社長をはじめとするメガネスーパーの会社組織自体を痛烈に批判する手記が掲載された。

この批判記事の掲載とその影響により、高野兄弟はプレ旗揚げ戦のみでNOWを離脱する運びとなり、後に谷津・仲野を発起人に加えた「PWC(プロ・レスリング・クルセーダーズ)」を旗揚げする。しかし発起人として名を連ねた谷津・仲野は実際にはPWCには参加せず、新たにプロレス団体のSPWF(社会人プロレス連盟)をSWS崩壊直後の1992年6月に発足し、1年2か月後の1993年8月に旗揚げ試合を行った。NOWはエース候補だった高野兄弟に代わり若手の維新力浩司をエースに抜擢し、ベテランの上田馬之助を参戦させて維新力との抗争を繰り広げ、話題作りや地道な活動を続けた。しかし興行成績は振るわず低迷し[注釈 27]、NOWは団体活動を休止した。

WARに関しては旗揚げ当初、天龍が一枚看板のエースとして新日本プロレスとの抗争を軸に盛り上がりを見せたが、スポンサーであるメガネスーパーがプロフェッショナルレスリング藤原組の東京ドーム大会の目玉カードとして天龍の出場を要請してきたが、新日本プロレスとの抗争が始まったばかりという事情もあり、新日本との対戦を主にしたい天龍が要請を断ると、すぐに約束されていた2年間の資金援助が途中で打ち切られてしまい、新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後はFMWをはじめとしたインディペンデント団体・UWFインターナショナル・女子団体であるLLPWなど幅広く交流を進めて独自路線で話題を振り撒いたが、これらの路線の全てが成功したわけではなく徐々に観客動員数は下降線を辿っていき、選手の離脱[注釈 28]などもあり、興行会社として業務形態を変更した後、余力のある内に経営を停止している。

一方で分裂後はWAR・NOWのいずれにも参加しなかった選手もいる。ドン荒川はSWS解散後、唯一メガネスーパーの社員となり『SWS所属』の肩書で活動し、佐野直喜はUWFスタイルへの共鳴もあり、SWS活動停止後はUWFインターナショナルに移籍した。若手の中原敏之も佐野と行動を共にしUWFインターナショナルに入門したが、再デビューを果たせず引退している。また、片山明は活動停止前となる1992年1月の大阪大会で頸椎脱臼骨折の重傷を負い、事実上リタイアを余儀なくされている。若手の山中敏也も1991年10月に脾臓破裂の重傷を負った後遺症もあり、団体活動停止とともに引退した。

SWSの団体活動は、6月19日の長崎国際体育館大会をもって最終興行を終了する。また事実上のSWS傘下団体となっていたプロフェッショナルレスリング藤原組も、1992年12月に内紛[注釈 29]が発生して興行活動を停止。これでメガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった[15]

SWSは旗揚げから2年間に、およそ99億円をプロレスに投資したとされる[17]

その他 編集

SWSは、メガネスーパーによるスポーツ事業[注釈 30]を扱う子会社「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」の一事業であり「プロフェッショナル・レスリング事業部」部門がプロレス団体としての機能を持っていた。SWSは活動停止後も会社組織としてはしばらく残り、ただ1人残留したドン荒川だけは「SWS所属」を名乗り出て活動していた[18]

SWS創立直後に成文化された公式ルールを制定し、旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。

現在の各団体のビッグマッチには欠かせない「一本花道」を、日本で初採用したプロレス団体である。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された[15]。一本花道は、後に新日本プロレスやプロレスリング・ノアでも採用している。演出面に関しては大手広告代理店博報堂とタイアップしていたとされている[19]

旗揚げ当初、リングに『闘いのパオ』と称したテント状のシートを覆い被せ、試合開始直前に緞帳のように引き上げる演出を行っていたが、評判が良くなくすぐに取り止めている。

サイパンや伊豆大島にも合宿場があったとされる[17]

新横浜にあったSWSの仮道場で行われていた道場マッチ「登竜門」は、若手選手主体で開催されており、天龍源一郎やジョージ高野などの主力選手は出場しなかった。この試みは普段選手達が練習をしている道場を一般公開して興行を行う目新しさもあり、500円という低料金の入場料で観客を集めて好評を博した。現在でもこの「道場マッチ」に関して、単独で道場を構える団体が頻繁に行う興行のきっかけともいえる。

3道場と実質的な傘下団体であった「プロフェッショナルレスリング 藤原組」の他に、SWSでは当時経営難に陥っていたパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、北尾光司をエースに立てた別動隊の母体としようとする構想があり、実際にパイオニア戦志の代表であった剛竜馬が支度金を受け取っていたという。しかし、それまでの剛との数々のトラブルや因縁などで選手会のほぼ全員からの猛反対を喰らってしまい、別動隊の動きは立消えとなっている[20]

テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。

前述した旗揚げ戦の中継は、2日間開催した大会を編集して、テレビ東京「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの[6]。前出の木村匡也のほかに、杉浦滋男四家秀治らテレビ東京アナウンサーが実況を務めていた。杉浦は団体後期も含め、WARの試合中継でもそのまま実況を担当していた。なお、番組内で付けられていた木村の肩書きは「SWS専属アナウンサー」であった。

1990年の首都圏旗揚げ興行になった横浜アリーナ大会2日間の模様は、一部の試合が編集された上で後にVHSビデオとして発売された。現在この大会を納めたVHSビデオソフト以外の試合DVD・ブルーレイは未発売である。

1991年3月30日からはWOWOWで放送開始[6][注釈 31]。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの1年間の放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し[6][注釈 32]、「激闘SWSプロレス」のタイトルでWOWOWの中継と同じ月1回・60分枠の中継[注釈 33]が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時団体自体のスポンサーになって間もない西松建設が番組を単独で提供したが、放送枠内でメガネスーパーのコマーシャルを一度は流れていた。

テレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも週1回の30分枠でSWSの情報番組があった。試合の実況中継[注釈 34]も交えた非常に珍しいスタイルだった。SWS崩壊後はWARNOW両方とも中継した[6]

Vジャンプの増刊号時代での創刊号に、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。SWSの将来を担うレスラーとして秘密裏に鍛えられていた青年が、恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包み、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後不定期に2話のみが掲載された後に終了しており、実際にリングに上がることはなかった。

2015年11月15日に行われた天龍プロジェクト主催の『天龍源一郎引退試合』では、メガネスーパーがスポンサーで協賛していた。

タイトル 編集

  • SWSタッグ王座
  • SWSジュニアヘビー級王座

WWF(現:WWE)と業務提携を結んでいた関係で、SWS王座はWWFが認定する王座とされていた。なお、WWFとの提携が決まった後、新日本プロレスが返上し、休眠状態にあったWWFインターナショナル・ヘビー級王座WWFインターナショナル・タッグ王座WWFジュニアヘビー級王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグ王座とジュニアヘビー級王座は作られたが、ヘビー級王座は認定されないまま活動休止、解散となっている。

所属選手 編集

この節の出典[21]

レボリューション 編集

道場「檄」 編集

パライストラ 編集

練習生 編集

スタッフ 編集

レフェリー 編集

リングアナウンサー 編集

スタッフ 編集

来日外国人選手 編集

この節の出典[23]

WWF
EMLL
その他

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 武藤自身はメガネスーパーが新規に設立した新団体SWS(エス・ダブリュー・エス)からの引き抜きには快く応じており、SWSへ移籍する予定で当時の新日本プロレス社長・坂口征二の元へ退団の挨拶に出向いたが、坂口社長がその場で引き止めてメガネスーパーの田中八郎社長に直接電話をして「武藤はそちら(SWS) の方には行かせませんので」と断りの連絡を入れており、移籍・退団を認めなかったことを後に証言している。
  2. ^ 当時担当した木村の話によると、この実況に関してプロレスファンからの評判は芳しくなかった上に、殆ど受け入れて貰えなかったという。
  3. ^ 試合後にリングを降りた北尾は、マイクを片手に憤りを隠せないリング上のテンタに対して「八百長野郎この野郎!、八百長ばっかりやりやがって!!」と怒鳴り付けるように発言し、会場内は騒然となって激しいブーイングが起こり、更に観客に向けて「お前ら、こんな物を観て面白いのか!」と言い放った。控室へ引き上げさせようとする選手の制止を振り切り「この八百長野郎!、八百長!!」と、最後まで暴言が続いた。北尾は控室に戻った後も暴れて収拾が付かず、注意したカブキと取っ組み合いの乱闘となり、北尾の態度を叱責した社長夫人の田中由子にも暴言を吐き、更に椅子を投げ付けるなど大荒れとなった。
  4. ^ 北尾の騒動と処分に関して、翌日に田中社長をはじめ役員を集結させた上で緊急会議が開かれ、社長の判断で北尾に対し「制裁金と謹慎処分」を科す事を公表した。しかし、この軽くて甘過ぎる処分に対して(なお社長はこの場にて北尾を擁護する発言が物議を醸した)反天龍派とマスコミ、プロレスファンから非難の声が上がった。この処分に納得が行かない反天龍派選手の中には「こんな処分で(北尾が)許されるんなら、自分からSWSを出て行きますよ!」と、強い抗議の声も出た。この非難を受けてSWSは、改めて北尾を「解雇」する重い処分を科した。田中社長は北尾の八百長発言と、軽く甘過ぎた処分について記者会見で謝罪した。
  5. ^ ただしSWSでは、このWWFとの提携で発生する選手招聘による高額な提携料、ファイトマネーの支払いに関して反天龍派から問題視する声が出ており、提携には強い反対意見が出された。しかし天龍の判断でこの反対の声を押し切った形でWWFとの提携を結んだが、これが発端で天龍派・反天龍派の間で見解の相違が生じ、確執の要因にも繋がった。
  6. ^ 最終的に全日本プロレスから離脱したのは選手・スタッフを含めて14人にのぼった。
  7. ^ 「鶴田軍」は改題をしており、鶴田が戦線を離脱した後は「聖鬼軍」として再び活動を始めた。
  8. ^ ジャイアント馬場の意向として「過去にウチ(全日本)でトラブルを起こした選手とは一切関わらないし、リングに上げない」という方針を取っていた。SWSに離脱した選手達はそれに該当する。
  9. ^ 後にジャパンプロレスへと発展している。
  10. ^ 後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称。
  11. ^ 浅井のEMLL移籍に前後して、SWSはザ・グレート・カブキを介してEMLLとの業務提携交渉を行っていた。EMLLとの業務提携成立により、中堅の折原昌夫と若手の中原敏之は1994年2月からSWSの崩壊直前までメキシコに遠征し、EMLLでは「イガ(折原)&コウガ(中原)」なるマスクレスラーのタッグとして活動している。
  12. ^ 新間はこの会談で天龍の態度を称賛したことで態度を軟化させたとされる。接点を持った天龍はWAR設立後にアントニオ猪木への「対戦要望書」を新間寿に託すこととなった。
  13. ^ プロレス団体興行としては、福井の旗揚げ大会から数えると1年9か月ほどで団体は崩壊している。
  14. ^ 同じ天龍派のレボリューション所属だった北尾光司も、1991年4月1日に神戸ワールド記念ホールで行われた対テンタとのシングルマッチ(北尾事件が発生した試合)に関して、この試合をマッチメイクしたカブキに相当な不満をぶちまけていたという。一説では反天龍派が北尾を煽動したという説もある。またこういった事情に関して、当時のプロレスマスコミなどから一切報じられることは無かった。
  15. ^ 天龍によると、試合編成だけでなく田中社長に相談して了承を得られた事案も、反天龍派の選手が後から横槍を入れて来ており、後に変更された事が何度もあったと発言している。
  16. ^ なぜ反天龍派の選手達が第1試合を敬遠したのか、真相は不明である。カブキは近年のインタビューなどで当時のSWSや選手について「SWSは自己中心的な選手達ばかりでどうしょうもなかった。活躍したのは源ちゃん(天龍源一郎)やレボリューション(天龍派)の選手で、あとは若手の選手だけだよ」と、嘆き気味に語っている。
  17. ^ 旗揚げ当初の説明では、天龍派率いる『レボリューション』所属選手の専用道場になる予定だった。
  18. ^ 当時WWFの交渉窓口は、元全日本プロレスで選手兼渉外担当だった佐藤昭雄がフロント入りをしており、反天龍派はWWFスタッフの佐藤と天龍、マッチメイカーのザ・グレートカブキとの関係も不信感を抱いていた。佐藤と天龍・カブキとは全日本プロレス時代、先輩後輩の間柄でもある。
  19. ^ 2019年に出版されたケンドー・ナガサキ著の自伝によると、91年に阿修羅・原がSWSへの現役復帰をきっかけに「反天龍」への機運が高まった、と記している。原の復帰に関して、反天龍派の選手から反対する声が上がっていたという。
  20. ^ レボリューションの天龍源一郎、パライストラのジョージ高野との道場主タッグが組まれるなど、普段は見られない対戦も実現した。
  21. ^ 天龍・ジョージとの試合後には、各部屋の選手達が控え室に集結して万歳三唱を行い、派閥解消をマスコミにアピールした。この試合後に天龍は「部屋制度は一時、棚上げだね。とにかくみんなでSWSを良くして、みんなの持っている物を前面に出そうって事でまとまってるよ」と、笑顔でコメントしていた。
  22. ^ その他の例として、谷津嘉章がWWFのキング・ハクと結託して「ナチュラル・パワーズ」なるタッグを結成し、タッグ戦線を賑わしたほか、「打倒天龍」を目標とした「挑龍軍」が北原辰巳(レボリューション)、仲野信市(檄)、大矢健一(パライストラ)と道場を横断する形で結成されたり、佐野直喜はUWFスタイルに共鳴し、積極的に藤原組の興行にも参戦している。
  23. ^ 「ナチュラル・パワーズ」や「挑龍軍」も解散に追い込まれた。ただし、完全に両派で分断した訳ではなく、ケンドー・ナガサキは『檄』所属であったが「中立派」であり、天龍派・反天龍派・外国人との対戦カードのいずれにも連ねている。
  24. ^ この事件の1週間前にはザ・グレートカブキが単独で記者会見を行い、マッチメイカーを自ら降板すると共に「レボリューション」所属から退く旨を明かした。今後はフリーとして活動を継続する意向を語っており、これによってSWSは一時マッチメイカーが不在となった。
  25. ^ この時点で既にSWSが崩壊・分裂するのが決定的となり、反天龍派の選手達も意気消沈していたこともあって谷津・仲野に同調して追尾する選手はいなかった。
  26. ^ リング上には試合中にもかかわらず物が投げ込まれる中で行われるという非常に危険で異常な事態となり、仲野はその光景に涙を流しながら試合をするという屈辱を味わった。
  27. ^ 高野兄弟に代わってNOWのエースに抜擢された若手の維新力浩司ではあるが、彼にネームバリューが思うほど無かったことも団体が低迷する要因だった。
  28. ^ 特に天龍の義弟である武井正智が社長に就任した時期に前後して団体内の意見の相違が表面化し、1994年に石川敬士が離脱し「東京プロレス」を設立し、さらに1996年には冬木弘道ら「冬木軍」が離脱している。
  29. ^ 藤原喜明と船木誠勝・鈴木みのるらとの路線対立により、船木・鈴木ら大半の選手が藤原組を離脱し、その後パンクラスを設立した。藤原組の残留者はこの時点で藤原と石川雄規のみであった。
  30. ^ 他にもゴルフ事業なども存在していた。その他のスポーツ事業や、現在でも存続するのかは不明である。
  31. ^ 実況:伊津野亮 解説:菊池孝・牧元一・林家しん平
  32. ^ 実質的に復帰した形となる。
  33. ^ 概ね月曜深夜に放送されていた。
  34. ^ ラジオ向けの趣向で音声のみであった。
  35. ^ SWS末期の1992年4月以降は「レボリューション」を離れて、専属フリーの立場となった。
  36. ^ a b 入団時からしばらくは専属フリーとしての参戦だったが、1992年4月より「パライストラ」所属となった。
  37. ^ a b SWS活動停止後はNOWへ参加。
  38. ^ a b c d SWS活動停止後はWARへ参加。
  39. ^ 1990年12月に初来日し、1991年3月の再来日を機に留学を希望したため「道場・檄」の預かりとして同年8月まで滞在した。SWS活動停止後の1992年7月に、覆面レスラー「マスクド・インフェルノ」としてW★INGプロモーションに参戦している。

出典 編集

  1. ^ a b c d e 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き興行戦争 pp22 - 27「SWSに走った天龍は、全日本から選手を引き抜いたのか?」(文:小佐野景浩
  2. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp085
  3. ^ a b c スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp64 - 66 「悲憤のSと一筋の光明」
  4. ^ a b 『SWSプロレス激闘史』pp023 - 047 「SWS激闘クロニクル1990-1992」
  5. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp006 - 011「恐龍怒闘 天龍源一郎が苦境に抗い続けたSWSの2年間」
  6. ^ a b c d e f g 『SWSプロレス激闘史』pp110 - 111「SWS激闘史年表」
  7. ^ スポーツアルバムN0.54『天龍源一郎引退記念特別号 下巻』(2015年、ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2) pp18 - 19
  8. ^ 『俺たちのプロレス VOL.10』「証言5 天龍源一郎 円満退社はなぜバッシングを浴びたのか? 全日本復帰の舞台裏とは?」(2018年、双葉社)P48
  9. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp084
  10. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp086 - 91 「検証!SWS×週プロ」
  11. ^ 竹内宏介『プロレス虚泡団体の真実』pp50 - 52
  12. ^ a b c d e f g スポーツアルバムN0.52『天龍源一郎引退記念特別号 上巻』pp68 - 70「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(文:安西伸一) ※pp70には『週刊プロレススペシャル3』のSWS関連インタビューの一部再括がある
  13. ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
  14. ^ 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  15. ^ a b c d e f 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.12 移籍・引き抜き興行戦争 pp52 - 57 「SWSの理想と現実」(文:小佐野景浩)
  16. ^ 『SWSの幻想と実像』p117
  17. ^ a b 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』p224
  18. ^ 『SWSプロレス激闘史』p61
  19. ^ 『SWSプロレス激闘史』p102
  20. ^ 『G SPIRITS VOL.46』pp34 - 43(高杉正彦による証言より) ISBN 9784777820047
  21. ^ 『SWSプロレス激闘史』 pp056 - 062「SWS日本人選手名鑑1990-1992」
  22. ^ 『SWSプロレス激闘史』p101
  23. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp63 - 71「SWSマットを席巻した外国人レスラー列伝」

関連書籍 編集

  • 小佐野景浩『SWSの幻想と実像』日本スポーツ出版社ISBN 4-930943-24-8 
  • 週刊プロレス特別編集 スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻』ベースボール・マガジン社、63-70頁。ISBN 978-4-583-62282-8 
  • 『日本プロレス事件史Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争』ベースボール・マガジン社、22-27頁。ISBN 978-4-583-62269-9 
  • 『日本プロレス事件史Vol.12 団体の"誕生、消滅、再生"』ベースボール・マガジン社、51-57頁。ISBN 978-4-583-62325-2 
  • 『B.B.MOOK1262「SWSプロレス激闘史」』ベースボール・マガジン社。ISBN 978-4-583-62364-1 

関連項目 編集