SWS(エス・ダブリュー・エス)、スーパー・ワールド・スポーツSuper World Sports)は、かつて日本に存在したプロレス団体

メガネスーパーが新規設立した企業「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」が運営し、天龍源一郎を主体として全日本プロレス新日本プロレスなどから選手が集まって作られた団体である。

1990年5月に新団体として発足し、1992年6月をもってプロレス団体としての活動を停止した。

概要編集

メガネスーパーの豊富な資金力を元に、既存するプロレス団体から選手・スタッフの引き抜き工作を行って新たな団体を旗揚げし、当時の「黒船」的存在としてプロレス界に衝撃と激震を巻き起こした。

1989年、アメリカのWCWに参戦していたグレート・ムタ武藤敬司)とマネージャーの若松市政、さらにケンドー・ナガサキらにアプローチを掛けた[1]。武藤の方は獲得出来なかったが[2]、若松は後に入団する。

1990年に入ると、最初に新日本プロレスからの引き抜きを開始し[1]、続いて4月には全日本プロレスを退団した天龍源一郎の獲得に成功する。更に当時、全日本が提示していた複数年契約に難色を示した所属選手も全日本を退団し、SWSに相次ぎ移籍する[1]。ただし、谷津嘉章のように全日本や肖像権を管理する日本テレビとの契約期間中にもかかわらずSWSへ離脱した選手も何人かおり、契約違反となった選手に関して全日本は後に法的措置を取っている。その結果、全日本プロレスから多くの選手・スタッフを引き抜いた形で集められた。

SWSはこれまでのプロレス団体とは異なり、選手にかなりの高給を支払っていた事で知られた。特にトップの天龍は当時、日本のプロ野球選手で最高額年俸だった中日ドラゴンズ落合博満選手並みの高給であったという[3]

1990年9月29日、天龍の出身地でもある福井県福井市体育館にて「越前闘会始」のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、10月18日10月19日の2日間、横浜アリーナにて「闘会始'90」のタイトルで正式な旗揚げ戦が行われた[4]。旗揚げ戦はテレビ東京で録画中継され、木村匡也ディスクジョッキー口調[5]で実況を担当した。その後はWOWOWの方で1991年3月から1992年3月まで1年間、月1回の割合で放送されている。

SWSは相撲界にある『部屋別制度』という、他団体には存在しなかった画期的なシステムを採用し、部屋対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場・檄』、ジョージ高野率いる『パライストラ』の計3部屋が置かれた[4]

しかしこの『部屋別制度』が仇となってしまい、次第に団体内で派閥争いを招く結果となり、SWSのエースである天龍源一郎率いるレボリューションと、それ以外の2部屋との間で主導権争いが生じた[4]

他にも1991年4月1日の神戸ワールド記念ホール大会で、レボリューションの北尾光司ジョン・テンタとのシングル戦の試合後に自らマイクを持ち、対戦相手のテンタに向かって『八百長』発言を連呼するという[6]前代未聞の醜態を起こした。この『八百長』発言が後に大問題となり、北尾が解雇される事態[7]となる。これらのトラブルが続き、更に興行の不振も重なり短期間でSWSは崩壊した。

崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした「レボリューション」所属選手主体のWARと、反天龍派の「道場・檄」と「パライストラ」所属選手主体のNOWの2つに分裂した[8]

約2年弱で崩壊したSWSだが、それまで他団体が実施しなかった道場を解放しての「道場マッチ」を低価格(500円)での開催や、その後の日本プロレス界の演出として定着する「一本花道」の採用、またWWF(現:WWE)との提携でスター選手の招聘を実現するなど[9]、画期的で目新しい試みをいくつか行った。一般企業を親会社に据え、その子会社としてプロレス団体を機能させる経営スタイルは当時としては珍しく「企業プロレス」と称されたが、後に複数のプロレス団体が株式譲渡などによる運営会社の子会社化を図っている。

歴史編集

この節の出典[10][8][11]

1990年編集

  • 4月26日、天龍源一郎が全日本プロレス社長のジャイアント馬場と会談。辞意を了承され退団し、メガネスーパーが興す新団体参加の意向を明らかにする。
  • 4月27日、新日本プロレス所属のジョージ高野佐野直喜の2人が大会を欠場したことにより、両選手の新日本脱退が表面化。
  • 5月7日、元新日本プロレスのジョージ高野が新団体参加の意向を表明。
  • 5月10日、東京・ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長・富永巽総務部次長・天龍源一郎が記者会見し、SWSの発足を発表。
  • 5月15日、若松市政の入団と道場主就任を発表。
  • 6月5日、ジョージ高野の入団と道場主就任を発表。
  • 6月27日、新横浜仮道場完成披露パーティーにて、桜田一男鶴見五郎片山明が所属選手として出席。
  • 7月2日、全日本プロレスを退団していたサムソン冬木高野俊二ほか5名の入団を発表。
  • 7月11日、石川敬士の入団を発表。
  • 7月12日・13日の2日間、第1回SWS新人オーディションを開催。元新日本プロレスの大矢健一、元全日本プロレスの平井伸和ら6名が合格。
  • 8月7日、全日本プロレスを退団したザ・グレート・カブキ谷津嘉章の入団および、米沢良蔵の取締役就任を発表。
  • 8月23日、アメリカから帰国した元新日本プロレス・佐野直喜の入団を正式発表。
  • 8月29日、大相撲を7月場所終了後に廃業した維新力の入団と、新倉史祐のフリー参戦を発表。
  • 8月30日、事業概要発表会披露パーティーがホテルオークラにて行われ、3道場の正式名称と選手の振り分けを発表。
  • 9月29日、福井市体育館でプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催。
  • 10月16日、ドン荒川の入団を発表。
  • 10月18日と19日の両日、横浜アリーナで旗揚げ2連戦を行う。
  • 10月21日、テレビ東京が横浜アリーナ2連戦の模様を録画放映。
  • 11月1日、新日本プロレスを退団した北尾光司の入団を発表。
  • 11月10日、新横浜仮道場で道場マッチ『登竜門』を開催。この日を含めて計5回開催された。
  • 11月20日、WWFとの2年間の業務提携締結を発表。

1991年編集

  • 1月22日、高木功を解雇。
  • 2月14日、週刊プロレスに対して取材拒否通達書を発送。
  • 2月24日、第2回新人オーディション開催。安良岡裕二・中原敏之が合格。オーディションとは別に川畑輝ら2名の入団を発表。
  • 3月13日、同じくメガネスーパーがスポンサーの新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)と業務提携を結んだことを発表する。
  • 3月24日、提携先のWWF主催「レッスルマニアⅦ」に天龍と北尾が参戦。タッグマッチでデモリッションと対戦して勝利。レッスルマニアシリーズで初の日本人レスラーによる試合となる。
  • 3月30日、WWF・東京ドームとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催。藤原組が初参戦。この大会からJBS(WOWOW=日本衛星放送)による放映が開始される。
  • 4月1日、神戸ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催。藤原組所属の鈴木みのるとの一騎討ちでのアポロ菅原の不可解な試合放棄事件や、北尾光司対ジ・アースクェイク・ジョン・テンタ戦で北尾が暴走の末に、反則負けとなった上にマイクを持ち『八百長野郎!』との暴言を放ったいわゆる『北尾事件』が同日に発生し、トラブルが続いた。
  • 4月4日、緊急理事会を開いた上で北尾光司のSWS「解雇」を決議。
  • 7月19日、田中八郎社長が「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」社長を退任し、新社長に天龍源一郎が就任。
  • 7月23日、阿修羅・原の入団を発表(前日付での入団扱い)。
  • 7月31日、伊豆大島トレーニングジム落成式開催。
  • 8月9日、横浜アリーナにてSWS1周年記念大会『紀元一年』を開催。
  • 9月13日、川崎市麻生区に落成した本道場を披露。
  • 10月12日、文化放送にてラジオ番組「激闘!SWSプロレス」放送開始。
  • 10月14日、EMLL(現:CMLL)との業務提携を結ぶ。これに伴い、9月にメキシコLLIからEMLLに移籍した浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)の参戦も決定。
  • 12月12日、2度目(単独では初)の東京ドーム進出。『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

1992年編集

  • 4月17日と18日、「THE BATTLE OF KINGS」2連戦を開催。テレビ東京が録画中継。
  • 5月14日、元選手会長の谷津嘉章が記者会見を開き、その席で辞意を表明。天龍派『レボリューション』と谷津・ジョージ高野派『パライストラ』『道場・檄』の対立が表面化。
  • 5月18日、天龍派と反天龍派が真っ2つに分かれたカード編成での新シリーズが開幕。
  • 5月23日、緊急理事会を開き、7月以降の天龍派と反天龍派の2派に分かれての活動を決定。
  • 5月25日、東京全日空ホテルにおいて、23日の理事会の決定事項を正式発表。SWSとしての興行活動の休止と、天龍派(WAR)と高野・鶴見五郎派の『パライストラ』及び『道場「檄」』連合(NOW)の2団体へ分裂が決定。
  • 6月19日、長崎国際体育館大会をもって、SWSとしての興行活動を終了。
  • 6月27日、反天龍派がNOWの発足を発表。
  • 6月28日、天龍派がWARの設立を発表。

他団体への影響編集

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の天龍をはじめ、谷津ら中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた全日本プロレス[12]は一時、崩壊の噂も流れて当時の東京スポーツでも『全日本プロレス 崩壊危機』とも報じられた。しかし残留した三沢光晴川田利明小橋健太菊地毅ら「超世代軍」と、鶴田率いる田上明渕正信小川良成ら「鶴田軍」[13]との抗争を軸に据え、残った選手の奮闘などもあって勢いを盛り返した。全日本プロレス社長・ジャイアント馬場は、1999年に逝去するまで天龍を始めとする離脱組を再び全日本のリングへ上げなかった。しかし天龍の全日本への参戦は、WAR社長の武井正智が主導となって幾度か交渉をした経緯がある。馬場は「全日本が困った時には頼むかもしれないけど、今はいいから」と答えていたのもあり、完全な絶縁関係ではなかった[14]。だがその一方で、馬場から天龍が全日本に上がる条件として、三沢達に土下座をして謝罪する事を要求し、天龍は馬場に頭を下げるのなら分かるが、三沢達に土下座する事には納得出来ず、この話は御破算になったとも発言している[15]。天龍の全日本への参戦は、馬場没後の2000年に全日本選手の大量離脱による経営危機に伴い、全日本からのオファーにより実現している。なお後に天龍は、三沢をSWSに引き抜く計画があったことを明かしており、天龍が「今の給料の倍は出すからどうだ?」と話したところ、三沢は「僕は今の状態で満足ですよ」と返答し、天龍は「酒の席での話だから、このことは忘れてくれよな」と三沢に告げたという[1]

新日本からも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWF長州力ら『維新軍団[16]』の離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われていたことから、この手のことに慣れていた新日本フロントは早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。同時に離脱したジョージ高野と佐野直喜に関しては法的措置を取ったと同時に、星野勘太郎などのベテラン選手が新日本道場に泊まり込んで若手を監視していたという[1]。SWSは、武藤敬司のほかにも藤波辰巳の獲得も狙っていたという[17]。当時新日本所属であった橋本真也は、当時の週刊プロレスの取材に応じた際に「プロレスにお金を出してくれる人のことを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えており、スポンサーとしてのメガネスーパーの存在に対しては肯定的意見を述べていた[18]

第2次UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーをメガネスーパーが務めるなど、友好な関係だったため選手の引き抜きは無かったが、その縁でSWSはUWF選手の出場を図った。後に藤原喜明の貸し出しが発表されたが、これが元でUWF内部に選手とフロント間の関係悪化を招き、UWF崩壊の遠因を作ることになった。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原・船木誠勝鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組[19]を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうち、1週間をSWSが拘束して興行に参戦する」という予定だったが、91年4月1日に神戸大会で発生した鈴木みのる対アポロ菅原戦での不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係は凍結してしまい、両団体は数回参戦のみで終わった。

週刊プロレスとの軋轢編集

SWSに対して批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」および当時編集長の山本隆司(ターザン山本)であった。山本は天龍の番記者だった『週刊ゴング』の小佐野景浩が、天龍の全日本退団などの情報を自分たちより早く得ていたことから、天龍が小佐野経由で週刊ゴングに意図的にさまざまな情報をリークしていたと決め付け、天龍とSWSに対するバッシング報道を開始する。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った[20]。週刊プロレスが喧伝した『SWS=金権プロレス=悪』という印象は天龍の引き抜きを始め、その後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場となった。

SWSへバッシングを始めた後も、旗揚げ当初からしばらくは試合結果を始めとするSWSの情報も、正規の取材を行った上で週刊プロレスにも試合の経過を始め、メインの試合なども写真付きで普通に掲載されていた。プレ旗揚げ戦「越前闘会始」には山本隆司編集長が自ら試合会場に出向いて直接取材を行ったが、全日本プロレス時代の天龍革命のような凄みを感じられなかったことから、誌面にはSWSおよび天龍に対してネガティブな記述が次第に多くなっていく[20]

こうした状況が続いたことに「プロはお金である」というバッシングの端緒になった評に対し、週刊プロレスへ直接反論を行った天龍源一郎は「お金で動いたとはいえない」などと答え[20]、その一方で若松市政は「その『週刊プロレス』もSWSの情報を載せて下さっている。ありがたいですね」と、大人の対応も示していた。

そんな中、SWSが初めて開催する東京ドーム大会の広告が週プロ誌上に掲載された。これは週プロがSWSの大会を扱ったものとしては初めて掲載したもので、広告のデザイン・レイアウトは週プロ編集部が担当した[20]。しかしこの広告のレイアウトのミスと、クレーム対応の不手際が最終的にSWSの取材拒否に結び付くトラブルに発展するが、発端はファイティングポーズを取る天龍の口元の部分に「ドームに夢を見よ」というコピーの内の「夢」という文字が入ったふきだしが被さったものだったのだが、天龍の口に黒いマスクを被せるように見えたことによりSWSから週プロに直接クレームが入り、それを受けてデザインを修正する運びになった。しかし週プロ側の不手際で修正前のデザインの広告が誌面に出てしまい、この週プロの対応に対してSWSが不快感を示す。

この不手際に関して週プロ側は「特に意図的では無い」としたものの、SWS側は「これは悪意に満ちている」と捉えて強い不満を抱いた[20]。この広告掲載を巡るトラブルを契機にSWSは、週プロに対して取材拒否を通告する。

この取材拒否の通告を受けて週プロは、真っ黒な背景に「2月15日の午後、SWS代表取締役田中八郎氏より、取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました」と表紙に大書、誌面では事態の経緯とともに関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の号の誌面で「今後はSWSに関する、一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本隆司編集長の名義で回答し、双方の関係は回復することなく完全に決裂した。この取材拒否はSWSの崩壊後、さらには後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。天龍個人は団体崩壊後も、しばらくの間取材拒否が続いた。

また2000年の週刊プロレス スペシャル3」には、鈴木健による田中本人への単独インタビューが巻頭記事として掲載されている。田中曰く、同誌の取材に応じた理由に関して「プロレス界から身を引く際に正式な挨拶をしていなかったので、こういう形で挨拶が出来ればと思いまして」とのことである。田中は当時を振り返り「引き抜きというタブーを行ったことで週プロがアレルギー反応を起こすのは承知していたが、正直悪く書かれたくはなかった」「週プロさんには全日本との長い付き合いがあったことから、(自分たち)新しい団体に対して良いことを書きますなんてことはない。しかしゴングさんとかはそういう色は出さなかった。それは編集長の見解の違いだったんでしょうね」と答え、山本の編集長としてのSWSに対する見解と姿勢には不満があったと語った[20]

なお山本は、同じ「週プロSP3」では「膨大な資金力のあるSWSに付くほうが本来ならいいんだけど、敢えて自分は馬場さんを支持する側に回った。ほかのすべてを敵に回しても馬場さんと共に負けるほうがいいと思った」などと語っていた[20]。しかし後年に、山本は馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSをバッシングしていたこと、SWS崩壊後に「今後週プロ誌上で実名を上げてのバッシング活動を行わない」という約束の見返りとして田中社長から1年間に渡って月50万円以上を受け取っていたことを後に暴露本で告白している[21][22]

早期崩壊の経過と原因編集

SWSが約2年[23]という短期で崩壊した要因として、一部プロレス誌によるバッシング報道で悪い印象を与えられてしまい、その影響によりSWSはプロレスファンからの批判・反発などもあったが、それ以上に天龍派の『レボリューション』と、反天龍派である『道場・檄』『パライストラ』の2部屋との対立がかなり大きかったとされる[24]

SWSは元々が全日本・新日本・旧国際プロレス出身者が集まった寄合い所帯であり、出身団体で培ったプロレス観や思考がそれぞれ異なっていたこともあって、旗揚げ当初から対立の火種を抱えていた。それでも純粋な部屋別対抗戦の域ならまだしも、実際は天龍派にマッチメイクなど団体自体の主導権を握られていた反天龍派の不信感は非常に根強かった[24]。新団体の旗揚げという始まりからすれば、3部屋は常に平等であることが理想的なのだが、マッチメイカーを天龍派であるレボリューションのザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション寄りのマッチメイクになる傾向が強かった。そのために、カブキが編成したマッチメイクには反天龍派からの不満と反感を買い、これが元で天龍率いるレボリューション派への不信感と嫉妬心を持たせる結果となり、派閥争いに拍車をかける形となった。

カブキが作成した試合編成に納得が行かない反天龍派選手の中には、田中社長に直訴することで決定事項が覆ることも少なからずあったといわれる。この反天龍派の根強い抗議と反発に配慮して、天龍およびレボリューションの選手がメインに出場する試合編成を変更し、他2部屋の選手がメイン試合に出場する編成へ組み直した。マッチメイカーのカブキはオープニングマッチ(第1試合)に力を注いでいたが、反天龍派が第1試合の出場を拒否する傾向[25]があったために、その際はカブキが第1試合に出場したこともある。

寄り合い所帯のため各道場同士の信頼関係が希薄であり、お互いがシュートを仕掛けてくるのではないかと疑心暗鬼になっていた。そのため、反天龍派の中には天龍やカブキに対して「なぁ、今日はガチでやるのかよ?」「(シュートを)仕掛けて来たらただじゃおかないですよ?」と、直接言って来たレスラーもいたという。

準備不足も手伝って各部屋が個別に道場を用意出来なかった点と、団体の「要」でもある本道場完成の遅れが『部屋の派閥化』傾向に拍車を掛けた。旗揚げ当時に掲げたプランニングでは、3部屋ごとに専用の道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想も練られていた。しかし当初掲げた構想計画は早期に頓挫してしまい、実際は旗揚げ時に建設された新横浜の仮道場と、SWS発足から1年以上が過ぎた1991年9月、神奈川県川崎市百合丘に総工費7億円を掛けて完成した本道場[26]を提供したに過ぎず、結局この2か所を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せず「派閥の温床」になっていた[24]

小佐野景浩著の「SWSの幻想と実像」によると、当初から天龍をエースとした団体の方針に不満と違和感を持った選手が存在し、その中には「自分は理想と思想を持ってSWSに移籍して来た。天龍をエースとして盛り上げるためにここ(SWS)に来た訳じゃないから」と、心中密かに反発している選手もいたという。

また反天龍派は、WWFとの提携[27]による高額な提携料や、選手に支払う高額なギャラも問題視しており「WWFと提携して高額な金を払うのなら、海外のインディー団体から選手を招聘した方がギャラも安く済むので、その分を自分たちに還元して欲しい」と、不満の声が持ち上がっていた。

しかしSWSはこの時、後発団体でかつバッシングの最中という立場にもあるために「他団体がやれない事をやろうじゃないか」という天龍の考えもあったため、敢えて反天龍派からの不満の声を押し切り、田中社長に了承を得た上でWWFと提携する決断をした。しかしその天龍の考えと反天龍派との見解の相違が大きかったため、両者との不信感と確執を生むきっかけとなった。

また旗揚げ前の構想では、3部屋がそれぞれ単独で興行を行って年に数回に渡り、部屋合同の対抗戦を開催する予定であったが、SWSがバッシングの最中でもあり「レボリューション以外の2部屋が、単独興行をしても観客が集まらないから」と難色を示し、結局3部屋での合同興行となった。しかし、レボリューション派からすると他の部屋が泣き付いて来たにもかかわらず、再び反発するという身勝手な行動と捉えていたため、さらに天龍派・反天龍派との確執が深まる結果となった。

91年4月1日の「北尾事件」以降は、マッチメイク補佐役として『道場・檄』より、谷津嘉章が就任し「パライストラ』より、ドン荒川が新たに就任する。合議制を取ることで各部屋の意向をある程度反映できるように改善した。道場対抗戦では普段見られないタッグ[28]編成も組まれ、選手間との関係は良好となり派閥解消[29]になったかと思われた。しかし派閥同士の対立は改善されず並行線をたどり、そして1992年5月14日に選手会長だった谷津嘉章の記者会見上で突然の「選手会長辞任、SWS退団」発言により、一気に対立が表面化する形となった[24]

谷津嘉章が当時プロレス界では異例の単独記者会見を行い、SWSのエースである天龍源一郎を批判したことで天龍派と反天龍派との派閥解消・関係修復は事実上不可能となり、この記者会見以降はSWS崩壊まで対抗戦は一切組まれず、天龍派と反天龍派が単独で組んだ試合カードを出し合って編成する形を取った[30]。カブキに代わるマッチメイカーは天龍派担当に石川敬士、反天龍派担当に鶴見五郎がそれぞれ就任。お互いに編成した対戦カードを照合して試合を組む様にした。

このような混沌とした異常事態の中で、SWSでは今後この様な状況で団体運営を続けるのは難しい物と判断し、8月に予定されていた興行をキャンセルするなど、団体としての幕引きへ向けて水面下で動きが進行していた。

5月22日の後楽園ホール大会では、興行開始前に内部混乱を招いた責任を取る形で谷津と同調する仲野信市の2人が、辞表を手にSWSからの「引退」を表明した。なおこの時、谷津と行動を共にしたのは仲野1人のみで他の反天龍派の選手は同調せず[31]、引退はこの2人だけであった。また谷津はこの騒動に対し、プロレスマスコミの報道姿勢に不満を抱いていたようで「自分がこれまで言って来た主張を、マスコミはちゃんと報じていないじゃないか」と批判していた。

当時のプロレスマスコミやファンは、天龍源一郎とレボリューションの選手を擁護する声が多くを占めており、会見の席で天龍やSWSを批判した谷津嘉章をはじめとした反天龍派は厳しく非難された。同大会で組まれた谷津・仲野の「SWS引退試合」では、観客の執拗な野次や激しいブーイングに終始する中での異常な雰囲気となる[32]。試合終了後は拍手すらなく、谷津はSWSとこれまで応援してくれたファンへ感謝と別れの意味を込めて、自身が着ていたジャージを脱いで客席に投げ込んだが、逆にそれを観客から投げ返されてしまうなど、この一件に関してファンの反応は非常にシビアだった[33]

翌5月23日にSWSでは、事態収拾のために緊急理事会を招集。その席でSWSの団体活動休止が決定し、正式な記者会見は2日後の25日に行われた。天龍派は「レボリューション」を母体に「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を、反天龍派は「NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)」をそれぞれ設立した。メガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったが、その援助も継続的ではなく『期間限定』という形となり、WARには2年間・NOWには1年間のスポンサー料提供で終了した。

NOWのプレ旗揚げ戦(8月9日)から1ヶ月後の9月10日に発売された『週刊文春』誌上で、ジョージ・俊二の高野兄弟による「俺たち、メガネスーパーに騙された」との見出しからこれまでによるSWS騒動の顛末と、社長をはじめメガネスーパー自体を痛烈に批判する手記が掲載された。

この一件の掲載と影響により、高野兄弟はプレ旗揚げ戦のみでNOWを離脱することになり、後に谷津・仲野を発起人に加えた「PWC(プロ・レスリング・クルセーダーズ)」を旗揚げする。だが発起人として名を連ねた谷津と仲野はPWCには参加せず、SPWFをSWS崩壊直後の1992年6月に発足し、1年2か月後の1993年8月に旗揚げ試合を行った。NOWはエース候補だった高野兄弟に代わり維新力浩司をエースに抜擢し、ベテランの上田馬之助を参戦させて維新力との抗争を繰り広げ、話題作りや地道な活動を続けた。しかし、興行成績は振るわずにNOWは団体活動を休止した。

WARに関しては、旗揚げ当初は天龍が一枚看板のエースとして、新日本プロレスとの抗争を軸に盛り上がりを見せたが、スポンサーであるメガネスーパーが、プロフェッショナルレスリング藤原組の東京ドーム大会の目玉カードとして、天龍の出場を要請し、新日本プロレスとの抗争が始まったばかりという事もあり、新日本との対戦を主にしたい天龍が要請を断ると、すぐに約束されていた資金援助は打ち切られ、新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後は、FMWをはじめとしたインディペンデント団体、UWFインターナショナル、女子団体であるLLPW(現:LLPW-X)など幅広く交流を進め幅広い路線で話題を振り撒いたが、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていき、選手の離脱等もあり、興行会社として業務形態を変更した後、余力のある内に経営を停止している。

SWSの団体活動は、6月19日の長崎国際体育館大会をもって最終興行を終了する。また事実上のSWS傘下団体となっていた藤原組も、1992年12月に内紛が発生して興行活動を停止。これでメガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった[24]

SWSは2年間で99億円プロレスに投資したとされる[34]

その他編集

SWSは、メガネスーパーによるスポーツ事業[35]を扱う子会社「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」の一事業であり「プロフェッショナル・レスリング事業部」部門がプロレス団体としての機能を持っていた。SWSは活動停止後も会社組織としてはしばらく残り、ただ1人残留したドン荒川だけは「SWS所属」を名乗り出て活動していた[36]

SWS創立直後に、成文化された公式ルールを制定し、旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。

現在の各団体のビッグマッチには欠かせない「一本花道」を、日本で初採用したプロレス団体である。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された[24]。一本花道は、後に新日本プロレスやプロレスリング・ノアでも採用している。演出面に関しては大手広告代理店博報堂とタイアップしていたとされている[37]

一説には、サイパンや伊豆大島にも合宿場があったとされる[34]

新横浜にあったSWSの仮道場で行われていた道場マッチ「登竜門」は、若手選手主体で開催されており、天龍源一郎やジョージ高野などの主力選手は出場しなかった。この試みは普段選手達が練習をしている道場を一般公開して興行を行う目新しさもあり、500円という低料金の入場料で観客を集めて好評を博した。現在でもこの「道場マッチ」に関して、単独で道場を構える団体が頻繁に行う興行のきっかけともいえる。

3道場と実質的な傘下団体であった「プロフェッショナルレスリング 藤原組」の他に、SWSでは当時経営難に陥っていたパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、北尾光司をエースに立てた別動隊の母体としようとする構想があり、実際にパイオニア戦志の代表であった剛竜馬が支度金を受け取っていた。しかし、それまでの剛との数々のトラブルや因縁などで選手会のほぼ全員からの猛反対を喰らってしまい、別動隊の動きは立消えとなっている[38]

テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。

前述した旗揚げ戦の中継は、2日間開催した大会を編集して、テレビ東京「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの[11]。前出の木村匡也のほかに、杉浦滋男四家秀治らテレビ東京アナウンサーが実況を務めていた。杉浦は団体後期も含め、WARの試合中継でもそのまま実況を担当していた。なお、番組内で付けられていた木村の肩書きは「SWS専属アナウンサー」であった。

1990年の首都圏旗揚げ興行になった横浜アリーナ大会2日間の模様は、一部の試合が編集された上で後にVHSビデオとして発売された。現在この大会を納めたVHSビデオソフト以外の試合DVD・ブルーレイは未発売である。

1991年3月30日からはWOWOWで放送開始[11][39]。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの1年間の放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し[11][40]、「激闘SWSプロレス」のタイトルでWOWOWの中継と同じ月1回・60分枠の中継[41]が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時団体自体のスポンサーになって間もない西松建設が番組を単独で提供したが、放送枠内でメガネスーパーのコマーシャルを一度は約束の様に流れていた。

テレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも週1回の30分枠でSWSの情報番組があった。試合の実況中継[42]も交えた非常に珍しいスタイルだった。SWS崩壊後はWARNOW両方とも中継した[11]

Vジャンプの増刊号時代での創刊号にて、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。SWSの将来を担うレスラーとして秘密裏に鍛えられていた青年が、恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包み、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後不定期に2話のみが掲載された後に終了しており、実際にリングに上がることはなかった。

2015年11月15日に行われた天龍プロジェクト主催の『天龍源一郎引退試合』では、メガネスーパーがスポンサーで協賛していた。

タイトル編集

  • SWSタッグ王座
  • SWSジュニアヘビー級王座

WWF(現:WWE)と業務提携を結んでいた関係で、SWS王座はWWFが認定する王座とされていた。なお、WWFとの提携が決まった後、新日本プロレスが返上し、休眠状態にあったWWFインターナショナル・ヘビー級王座WWFインターナショナル・タッグ王座WWFジュニアヘビー級王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグ王座とジュニアヘビー級王座は作られたが、ヘビー級王座は認定されないまま活動休止、解散となっている。

所属選手編集

この節の出典[43]

レボリューション編集

道場「檄」編集

パライストラ編集

フリー編集

練習生編集

スタッフ編集

レフェリー編集

リングアナウンサー編集

スタッフ編集

来日外国人選手編集

この節の出典[45]

WWF
EMLL
その他

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き興行戦争 pp22 - 27 「SWSに走った天龍は、全日本から選手を引き抜いたのか?」(文:小佐野景浩
  2. ^ 武藤自身はメガネスーパーが新規に設立した新団体SWS(エス・ダブリュー・エス)からの引き抜きには快く応じており、SWSへ移籍する予定で当時の新日本プロレス社長・坂口征二の元へ退団の挨拶に出向いたが、坂口社長がその場でメガネスーパーの田中八郎社長に直接電話をして「武藤はそちら(SWS) の方には行かせませんので」と断りの連絡を入れており、移籍・退団を認めなかった事を後に証言している。
  3. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp085
  4. ^ a b c スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp64 - 66 「悲憤のSと一筋の光明」
  5. ^ 当時担当した木村の話によると、この実況についてプロレスファンからの評判は宜しくない上に、ほとんど受け入れて貰えなかったという。
  6. ^ 試合後にリングを降りた北尾は、マイクを片手に憤りを隠せなかったリング上のテンタに対して「八百長野郎この野郎!、八百長ばっかりやりやがって!!」と怒鳴り付けるようにマイクで発言し、会場内は騒然と化して激しいブーイングが起こった。更に観客に向けて「お前ら、こんな物を観て面白いのか!」とマイクで言い放った。そして控室へ引き上げさせようとする選手の制止を振り切り「この八百長野郎!、八百長!!」と、最後まで北尾の暴言が続いた。
  7. ^ 今回起こった北尾の騒動と処分に関して後日、田中社長ほか役員を集結させた上で緊急会議が開かれ、田中社長の判断で北尾に対して「罰金および謹慎処分」を科す旨をマスコミに発表された。しかし、北尾の軽くて甘過ぎる処分には(さらに田中社長は北尾を擁護する発言までしていた)反天龍派からは勿論、マスコミやプロレスファンからも多くの批判の声が上がった。この北尾の処遇に納得が行かない反天龍派の中には「こんな処分で(北尾が)許されるんなら、自分からSWSを出て行きますよ!」と、強く抗議を申し出る選手もいた。この非難の声を受けてSWSは、改めて北尾に対して「解雇」という重い処分を科す事態となった。田中社長は事の重大さと認識の甘さ(北尾の八百長発言と軽く甘過ぎた処分について)に対し、再度記者会見を開き謝罪した。
  8. ^ a b 『SWSプロレス激闘史』pp023 - 047 「SWS激闘クロニクル1990-1992」
  9. ^ ただしSWSでは、このWWFとの提携により発生する選手招聘による高額な提携料およびファイトマネーの支払いが反天龍派から指摘・問題視されており、提携には反対意見が出されていた。しかしこの声を押し切った形でWWFと提携を結んだものの、これが発端となり天龍派・反天龍派の間で見解の相違が生じてしまい、確執の要因に繋がった。
  10. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp006 - 011 『恐龍怒闘 天龍源一郎が苦境に抗い続けた「SWSの2年間」』
  11. ^ a b c d e f g 『SWSプロレス激闘史』pp110 - 111 「SWS激闘史年表」
  12. ^ 最終的に全日本プロレスから離脱したのは選手、スタッフを含めて14人にのぼった。
  13. ^ 「鶴田軍」は改題しており、鶴田が戦線を離脱した後は「聖鬼軍」として活動を始めた。
  14. ^ スポーツアルバムN0.54 天龍源一郎引退記念特別号 下巻 (2015年、ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2) pp18 - 19
  15. ^ 『俺たちのプロレス VOL.10、証言5・天龍源一郎「円満退社はなぜバッシングを浴びたのか? 全日本復帰の舞台裏とは?」』(2018年、双葉社)P48
  16. ^ 後にジャパンプロレスへと発展している。
  17. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp084
  18. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp086 - 91 「検証!SWS×週プロ」
  19. ^ 後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称。
  20. ^ a b c d e f g スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp68 - 70 「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(文:安西伸一) ※pp70には『週刊プロレススペシャル3』のSWS関連インタビューの一部再括がある
  21. ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
  22. ^ 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  23. ^ プロレス団体興行としては、福井の旗揚げ大会から数えると1年9か月ほどで団体は崩壊している。
  24. ^ a b c d e f 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.12 移籍・引き抜き興行戦争P52 - 57 「SWSの理想と現実」(文:小佐野景浩)
  25. ^ なぜ反天龍派の選手達が第1試合を敬遠したのか、真相は不明である。カブキは近年のインタビューなどで当時のSWSや選手について「SWSは自己中心的な選手達ばかりでどうしょうもなかった。活躍したのは源ちゃん(天龍源一郎)やレボリューション(天龍派)の選手で、あとは若手の選手だけだよ」と、嘆き気味に語っている。
  26. ^ 旗揚げ当初の説明では、天龍派率いる『レボリューション』の専用道場となる予定だった。
  27. ^ 当時WWFの交渉窓口は、元全日本プロレスで選手兼渉外担当だった佐藤昭雄がフロント入りをしており、反天龍派はWWFスタッフの佐藤と天龍、そしてマッチメイカー担当のザ・グレートカブキとの関係も不信感を抱いていた。佐藤と天龍・カブキとは全日本プロレス時代、先輩後輩の間柄でもある。
  28. ^ レボリューションの天龍源一郎、パライストラのジョージ高野との道場主タッグが組まれるなど、普段は見られない対戦も実現した。
  29. ^ 天龍・ジョージとのタッグマッチの試合後に各部屋の選手達が控え室に集結し、万歳三唱で派閥解消をマスコミの前でアピールした。 この試合後に天龍は「部屋制度は一時、棚上げだよね。とにかくみんなでSWSを良くして、みんなの持っている物を前面に出そうって事でまとまってるよ」と、笑顔でコメントしていた。
  30. ^ この事件の1週間前にはザ・グレートカブキが単独で記者会見を行い、マッチメイカーを自ら降板すると共に「レボリューション」派からの離脱を表明する。今後はフリーとしてやっていくことを発表し、これによってマッチメイカーが不在となった。
  31. ^ この時点ですでに反天龍派とはいえ、SWSが崩壊・分裂するのが決定的となりまた選手達も意思の疎通が全くなっておらず、意気消沈して勢いも無くしてしまっており、谷津・仲野の両名に同調して追尾する選手は1人もいなかった。
  32. ^ リング上には試合中にも関わらず。物が投げ込まれる中で行われるという非常に危険で異常な事態となり、仲野は涙を流しながら試合をするという屈辱を味わった。
  33. ^ 『SWSの幻想と実像』117Pより
  34. ^ a b 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』、pp.224
  35. ^ 他にもゴルフ事業なども存在していた。その他のスポーツ事業や、現在でも存続するのかは不明である。
  36. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp061
  37. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp102
  38. ^ 『G SPIRITS 』VOL.46(辰巳出版、2018年)ISBN 9784777820047 P34-43の高杉正彦による証言より
  39. ^ 実況:伊津野亮 解説:菊池孝・牧元一・林家しん平
  40. ^ 実質的に復帰した形となる。
  41. ^ 概ね月曜深夜に放送されていた。
  42. ^ ラジオ向けの趣向で音声のみであった。
  43. ^ 『SWSプロレス激闘史』 pp056 - 062 「SWS日本人選手名鑑1990-1992」
  44. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp101
  45. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp063 - 071「SWSマットを席巻した外国人レスラー列伝」

参考書籍編集

  • 小佐野景浩 『SWSの幻想と実像』日本スポーツ出版社ISBN 4-930943-24-8 
  • 週刊プロレス特別編集 スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻』ベースボール・マガジン社、63-70頁。ISBN 978-4-583-62282-8 
  • 『日本プロレス事件史Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争』ベースボール・マガジン社、22-27頁。ISBN 978-4-583-62269-9 
  • 『日本プロレス事件史Vol.12 団体の"誕生、消滅、再生"』ベースボール・マガジン社、51-57頁。ISBN 978-4-583-62325-2 
  • 『B.B.MOOK1262「SWSプロレス激闘史」』ベースボール・マガジン社。ISBN 978-4-583-62364-1 

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