UWF

日本のプロレス団体。ショー、エンターテイメント要素を排除した試合形式は一斉を風靡した。

UWF(ユー・ダブリュー・エフ)は、かつて存在した日本プロレス団体

正式名称はユニバーサル・レスリング・フェデレーション、ユニバーサル・レスリング連盟1985年9月に活動休止した第1次と、1988年4月に旗揚げし1991年1月に解散した第2次の2期に分かれる。

概要編集

第1次UWFは1984年3月、新日本プロレス専務取締役営業本部長の新間寿が設立した。

第2次UWF解散後はリングスUWFインターナショナル新UWF藤原組の3団体に分裂している。

選手入場時などで使われたメインテーマ、通称「UWFのテーマ」はUWFの象徴とされ、UWFが解散した後もUWF出身選手が大一番で使用している[1]

UWFの思想から派生した格闘系プロレス団体を総称してUWF系、略してU系と呼ぶ。

アメリカビル・ワットが主宰していた同名のプロレス団体「Universal Wrestling Federation」が同時期に存在したが交流も関係も全くない。スティーブ・ウィリアムスらが保持していたUWFヘビー級王座は、このビル・ワット版UWFの認定王座である。

日本にも同名のプロレス団体「ユニバーサル・プロレスリング」が設立されているが関連はなくスタイルも異なる。混同を避けるため当ページのプロレス団体を「UWF」、ユニバーサル・プロレスリングは「ユニバーサル」と呼び分けることもある。

歴史編集

第1次UWF編集

旧UWFユニバーサルとも呼ばれる。

旗揚げまでの経緯編集

設立の裏には当時、新日本プロレスのアントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により莫大な負債を抱えて、新日本がその補填をすることに対して新間寿と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)である。前田日明によると、クーデター事件により新たな資金源が必要になった猪木が、フジテレビと契約するために作ったという[2]。一時はクーデター派によって新間は専務取締役を解任されて同時に猪木も代表取締役社長を一時的に解任されたが、「猪木なしでの中継放送はありえない」というテレビ朝日の介入により、クーデターは未遂に終わる。

この経緯から、設立前には猪木を含めた新日本所属選手の参加が噂され、旗揚げ戦のポスターにも当時の新日本主力選手や主力外国人選手の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というコピーまで刷り込まれた)、結果としては前田を始め、当時の新日本で主力・エース級でない選手を中心に参加にするにとどまった。前田は「猪木さんが『俺も後から行くから先に行ってくれ』と言われたので移籍した」と発言している。

外国人選手に関しては、全日本プロレス当時会長のジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが斡旋の窓口となっており、4月開幕の旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングからボブ・スウィータンスコット・ケーシーテネシー州メンフィスCWAからダッチ・マンテルが来日している[3]。新間は当初、自身が会長を務めていたWWFをUWFの外国人供給ルートとして考えていたが、当時WWFと新日本との業務提携契約が5月末まで残っており、4月の旗揚げシリーズには別ルートから外国人選手を招聘する必要があったためである[4]。WWFのビンス・マクマホン・シニアは、新日本との契約終了後は新間への協力を約束しており、WWFとの契約締結までの外国人選手斡旋を馬場に頼んだことがきっかけである[4]マーク・ルーインカリプス・ハリケーンといった全日本参戦経験者がUWFに登場している。6月に予定されていた旗揚げシリーズ第2弾は外国人勢が強化され、馬場のNWAルートからキングコング・バンディトミー・リッチジャイアント・キマラなどが来日することになっていた[3]。その見返りとして馬場は、ハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントなど、WWFのトップレスラーの全日本参戦を要望していたという[4]

新間の退陣後はWWFとの業務提携も立ち消えとなり、ラッシャー木村剛竜馬マッハ隼人をブッカーに、カナダ沿海州アトランティック・グランプリ・レスリングメキシコEMLLからの招聘ルートを独自に開拓。カナダからはフレンチ・マーテルレオ・バークザ・UFOスウィート・ダディ・シキキューバン・アサシンなどのベテランのほか、ダニー・クロファットもフィル・ラファイアーの名義で第1次UWFに初来日している。

旗揚げ編集

1984年4月11日、大宮スケートセンターで旗揚げ戦を開催。ポスターに掲載されていた猪木を始めとする新日本の主力選手や、ホーガン、アンドレ、ボブ・バックランドら大物外国人選手は誰も出場しなかった。そのため、これらの選手の出場を期待して来場したファンからは罵声や、当日の興行には関係のない猪木、長州力藤波辰巳らのコールがメインイベントの前田の試合中に発生するなど波瀾含みのスタートだった。旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが、前田の師匠格である藤原喜明髙田伸彦を引き連れて参加したあたりから方向性が定まり始め、道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングスタイルに転換していく。殴打技や蹴り技も取り入れており、極真会館の空手家でキックボクサーの山崎照朝を特別コーチに招いて指導を受けた[5][6]。その様子は後に極真会館の空手家の松井章圭と専門誌「ゴング格闘技(1987年8月号)」で対談した際に前田自ら語っている[5][6]

1984年7月23日と24日、後楽園ホールで開催した「UWF無限大記念日」にて、約1年前に新日本から引退していたタイガーマスクこと佐山聡がザ・タイガーとして現役復帰し、佐山が設立したタイガージムでインストラクターを務める山崎一夫を引き連れて参戦。一部のマスコミやファンの強力なバックアップもあり、8月4日に正式に入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わった。なお、佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げて、これにより新間は正式にUWFから手を引き、新間に追従する形でグラン浜田も退団している。主力選手たちがカール・ゴッチの門下生であったことから、ゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も居住地のフロリダからスコット・マギージョー・マレンコヨーロッパからジョニー・ロンドスピート・ロバーツなど外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力し、UWFの目指す「ゴッチ流ストロングスタイル」のラインが出来上がり、佐山はリングネームをスーパータイガーと改めて、9月7日の後楽園ホール大会「UWF実力No.1決定戦」の第1ラウンドで藤原を、9月11日には第2ラウンドで前田を倒し、「UWF実力No.1」の称号を獲得した。

UWFの試合は「シングルマッチが中心」、「ロープワークを廃する」、「相手の技を簡単に受けない」など、従来のプロレスのショー的要素を廃して、「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」、「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開。従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持し、「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。

その一方で、佐山のUWF移籍問題で社長の浦田昇が、暴力団を介して佐山のマネージャーだったショウジ・コンチャを強要した容疑で逮捕されるなど、スキャンダルも報じられた。また、木村と剛が「ビクトリー・ウィークス」シリーズ後に離脱。これは外国人選手のブッキング窓口を巡るトラブルによるものである[7]

佐山はタイガージム時代から「新格闘技」と称して、しっかりしたルールに則った「競技スポーツ」を模索し、プロレスではなく「シューティング」、その選手には「シューター」という単語を使うようになり、そのプロデュースを手がけることにたいへん熱心だったことから、徐々に試合ルールなどに口を出すようになり、UWFのルールが改正されていった。佐山は藤原とノーフォールマッチを行い勝利すると、1985年には所属選手の戦績から実力査定を行うリーグ戦を開催し、ランキング制度を導入してAリーグとBリーグの2軍制を取り入れた。「反則をより明確にする」、「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」、「減点ポイント制を導入してロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」、「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行なってはならない」など実験的な試みを数多く取り込んでいった。

活動停止編集

当時は「テレビ局が付いていなければ団体運営は出来ない」と言われていた時代だったが、UWFはテレビ番組が無かった。当初はフジテレビが放送するという話もあったが、立ち消えになっている[8]。その後、TBSでの中継の話も持ち上がったが立ち消えとなり、最終的にはテレビ東京の番組「世界のプロレス」で一部の試合が放送された。しかし、放送局の関係でネット局も少なく、しかも定期放送ではなかったため、アピールするには不充分だった。

UWFはアピールの不足や、放映権料も無い事で資金繰りに苦しむことになるが、メインスポンサーで、当時冠スポンサーとして団体名を「海外UWF」と改正していたこともあった豊田商事会長の永野一男殺害されるなど、さらに資金繰りが悪化した。くわえて豊田商事事件の影響でテレビ東京からも試合中継を打ち切られた[9]

リングでは目指すスタイルの問題や、佐山が実権を握り団体改革、ルール改正を推し進めたことで、佐山と所属選手の間に徐々に溝が生じた。1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターでは社長の浦田と新日本の山本小鉄との会談が行われ、新日本との業務提携交渉がスタートしたが[10]当日の興行では第2回公式リーグ戦で前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛け、佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとしてレフェリーに反則を主張。前田の反則負けとなるが実際は下腹部には当たっておらず、佐山が一方的に試合を終わらせたものと見られている。その後、前田は欠場。この事件は暗い影を落として9月11日、後楽園ホール大会を最後に活動停止したが、リングでの解散宣言は行われなかった。

佐山は再びプロレス界から身を引き、標榜する新しい格闘技「シューティング(後の修斗)」の設立に力を注ぐことになる。

新日本プロレスとの業務提携編集

活動停止後に社長の浦田昇は、新日本・全日本との本格的な業務提携交渉を開始。全日本との交渉は、長州力ジャパンプロレス勢や、先にUWFを退団して全日本に参戦していたラッシャー木村や剛竜馬ら旧国際プロレスの選手たちによって飽和状態であり、所属選手全員を受け入れる余力はなかった事から決裂。新日本との交渉に望みをかけた[10]。新日本との交渉は難航したが、1985年12月6日に業務提携を発表。前田、高田、山崎、藤原、木戸が古巣である新日本に電撃復帰することになった。

前田は挨拶に立った新日本のリングで「この1年半、UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」と宣言した。なお、崩壊以前から前田はジャイアント馬場から「全日本に来ないか」と誘われていたが、上記の通り選手は飽和状態で、馬場がオファーしたのは前田と高田だけだった為、他の選手の事を考え断っている[10]

1986年1月、新日本からの要求により、猪木への挑戦権を賭け、5選手による「UWF代表者決定リーグ戦」が新日本新春シリーズにて行われる。2月5日の大阪城ホール大会で、リーグ戦を勝ち抜いた藤原と前田によるUWF代表者決定戦が行われ、試合は両者リングアウトの後、延長戦となり、終盤、前田は藤原をスリーパーで決めるが、その一方で藤原も前田をレッグロックに捕える。藤原が口から泡を吐いて失神同然になったものの、前田も同時にタップ。レフリーのミスター高橋は藤原の勝利を告げ、UWF代表として猪木への挑戦権を獲得。2月6日、両国国技館で行われた新日本プロレス対UWFの頂上対決は、かつての師匠と、その付き人の一戦となる。試合は猪木があくまでも自分が格上であることを意識した試合を運び、局部への蹴りや顔面へのストレートパンチとラフファイトの末に藤原は絞め落とされ敗戦したが、直後に前田がリングに乱入し、勝ち名乗りを上げる猪木の顎に不意打ちのハイキックを見舞いダウンさせた。前田は反則技を織り交ぜた上で藤原に勝利した事に激昂、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか」と猛批判して、これを契機に新日本とUWFの全面抗争に突入する。

彼らはUWFスタイルを貫いて新日本に真っ向からイデオロギー対決を挑み、2つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日本はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)は、佐山聡(タイガーマスク)の引退や長州を筆頭とするジャパンプロレス勢の大量離脱、マシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけ、ファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎。当時、ワールドプロレスリングで実況担当していた古舘伊知郎は「闘いのカムバックサーモン現象」と呼んだ[11]

その中で今も語り継がれる名勝負や名シーンも数多く生み出されている。1986年3月26日、東京体育館大会で新日本対UWFの5対5イリミネーションマッチが行われた。4月29日、津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアント戦のシュートマッチは、先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策したものとされ、この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れて[12]結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での勝利で、前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田と越中詩郎IWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。

1986年6月12日、大阪城ホールで行なわれたIWGPリーグ戦での、前田日明と藤波辰巳のシングルマッチでは、前田は序盤からキックを顔面や胸板に浴びせるが藤波は真っ向から受け、コーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キックにより、藤波は額を切り大流血して最後は前田がロープに飛ぶというUWFとしては異例の行動を取る[13]。前田の放ったフライングニールキックと藤波のジャンピング・ハイキックが空中で交差して両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後に前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り上辺ではUWFと新日本の雪解けを予感させたが、新日本、UWFともにフラストレーションは高まる一方で、遠征先の熊本県水俣市の旅館で設けられた親睦の宴席では、双方泥酔し大暴れした挙げ句に旅館を破壊する騒動を起こした[14][15]

1987年、長州らジャパンが新日本に電撃復帰し、6月12日の両国国技館大会で行われたIWGPリーグ戦決勝戦の猪木対マサ斎藤戦で猪木が4連覇を達成した後、いつまで経ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか。今しかないぞ俺たちがやるのは」と、リングから藤波と前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「どうせやるんだったら世代闘争に終わらんとな、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ決まるまで」と呼応し、猪木、斎藤ら旧世代軍と長州、藤波、前田を中心とする新世代軍の戦いが始まった。

しかし発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世代軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことで、長州と前田の間で確執ができ、ついに1987年11月19日の後楽園ホール大会で行われた維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて、前田が長州を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負い、プロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田は、その行為を内外から問題視され、無期限出場停止処分となった(前田は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き「今から蹴りますよ」と合図を送ったが、肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否したことで、1988年2月1日付けで前田は新日本から契約を解除される。

第2次UWF編集

新生UWFとも呼ばれる。

活動再開編集

前田が再度「UWF」を設立した。第1次時代は興行的に苦戦して活動停止に追い込まれたが、新日本との業務提携にてUWFスタイルをテレビを通じてアピール出来た事から、全国的にファンの支持を得ており、5月12日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催した。チケットがわずか15分で完売する等、旗揚げ前から異常なまでの盛り上がりを見せた。所属選手6名のみでの再出発となったが、前田日明は挨拶で「選ばれし者の恍惚と不安、2つ我あり」と心境を述べた。

6月11日、札幌中島体育センターでの興行を開催。会社を休んで遠方からやってくるファンもいたほどで(ターザン山本が「密航」なる言葉まで生み出した)、放送作家の高田文夫や作家の夢枕獏札幌まで足を運んだという。チケットぴあなどのチケット販売代理業を有効活用し、レーザーライトやスモークを活用した旧来のプロレスとは異なる演出方法を取り入れた。

シリーズ巡業(サーキット)形式ではなく、月1回の単発形式に絞って各地の主要な試合会場を回るビッグマッチ形式を採用し、連戦による選手の著しいコンディション低下を予防。大会ごとの記念グッズを作ったり、前の大会を完全収録したビデオを次の大会でいち早く販売することで、収益を上げて興行数の少なさを補うなど新たな試みがなされた。

8月13日、有明コロシアムでシュートボクシングとの合同興行「真夏の格闘技戦」を開催し、メインイベントに前田対ジェラルド・ゴルドー戦を据えて成功させると、以降も大会を開催する度にチケット完売が続いた。

また、ルールでの整備にも着手し、かつて佐山が試みたような

  • 試合は全てシングルマッチ1本勝負。
  • 勝敗はKOもしくはギブアップのみでピンフォールなし。
  • 5度のダウン(3度のロープエスケープで1度のダウンと算定)でTKO負け。

上記の基本的な枠組みを決定した。

1989年には藤原喜明を始め、新日本を退団した若手選手である船木誠勝鈴木実(鈴木みのる)が入団。11月29日にはメガネスーパーの協賛による東京ドーム大会「U-COSMOS」を開催した。

解散編集

順風満帆かと思われていたが、スポンサーのメガネスーパーがプロレス界に参入し、メガネスーパーが立ち上げたSWSとの業務提携話が発生したため、所属選手とフロントの間に不協和音が流れたほか、当時社長の神真慈と一部社員の会社経理における不正疑惑が発覚して、それを糾弾した前田が会社への背任行為として5ヶ月間の出場停止処分を受けた[16]

1990年12月1日、松本運動公園体育館大会では、船木の呼びかけにより欠場中の前田を含む全選手がリングに勢揃いして万歳三唱を行い、選手の一致団結をアピール。最終的には社長の神が所属選手全員を解雇した事で、第2次UWFは解散した[17]

解散後、前田が先頭に立って選手主体による新たな団体(俗に第3次UWFとも称された)を設立する方向に動き、1991年1月に前田の自宅マンションで藤原を除いた主力選手によるミーティングを行った。前田は結束を呼びかけたが、宮戸優光安生洋二らから不満が噴出し、結局前田がその場で解散を宣言し、リングス、UWFインターナショナル、新UWF藤原組の3団体に分裂した。

前田は選手達が解散後すぐに、それぞれの新たな団体を設立した事について「事前に準備していなければ、こんなに早く会社を起こせる訳がない。自分の知らない所で、みんな動いていたことにショックを受けた」と後に明かしているが、藤原はKAMINOGEのインタビューで否定している。

タイトル編集

第1次
当初は新間寿の伝手によりWWFインターナショナル・ヘビー級王座が存在したが、新日本に全く同じ名前のWWFインターナショナル・ヘビー級王座が存在しており、同じ名前の王座が2つ存在するという異常な事態となった。王者であった前田はWWFエリアで防衛戦を1度だけ行ったが、それが最初で最後の防衛戦となり、新間がUWFから離れた事によってWWFとの関係も無くなり、「UWFヘビー級王座」と改称されたが防衛戦は行われないまま自然消滅した。
第2次
王座は設けていない。

所属選手編集

第1次と・第2次両方に所属
第1次のみ所属
第2次のみ所属

スタッフ、役員編集

第1次と第2次の両方に所属
  • 北沢幹之(レフェリー)
  • ミスター空中(第1次は選手兼レフェリー、第2次はレフェリーに専念)
  • 神真慈(第1次はリングアナウンサー、第2次は代表取締役社長)
第1次のみ所属
第2次のみ所属

来日外国人選手編集

参考文献編集

  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.2』ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583621876
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.3』ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583622026
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.8』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699
  • 『Gスピリッツ Vol.32』辰巳出版、2014年。ISBN 4777813304
  • 『Gスピリッツ Vol.46』辰巳出版、2017年。ISBN 4777820041
  • 『U.W.F.最強の真実』 宮戸優光著、 エンターブレイン、2003年6月27日。ISBN 9784757715288
  • 『U.W.F.戦史』 塩澤幸登著、河出書房新社、2008年8月5日。ISBN 9784309907864
  • 『U.W.F.戦史〈2〉1987年〜1989年新生U.W.F.復活編』 塩澤幸登著、河出書房新社、2009年8月1日。ISBN 9784309908434
  • 『U.W.F.戦史3』 塩澤幸登著、河出書房新社、2010年11月22日。ISBN 9784309908946
  • 『1984年のUWF』 柳澤健著、文藝春秋、2017年1月27日。ISBN 9784163905945
  • 『証言UWF 最後の真実』 宝島社、2017年5月17日。ISBN 9784800271235
  • 『逆説のプロレスVol.9 新日本プロレス vs UWF「禁断の提携時代」マット秘史』双葉社、2017年8月17日。ISBN 9784575456967
  • 『疾風怒涛!! プロレス取調室 UWF&PRIDE格闘ロマン編』 玉袋筋太郎著、毎日新聞出版、2017年10月11日。ISBN 9784620324760
  • 『前田日明が語るUWF全史 上』 河出書房新社、2017年12月8日。ISBN 9784309921365
  • 『前田日明が語るUWF全史 下』 河出書房新社、2017年12月8日。ISBN 9784309921372
  • 『証言UWF 最終章 3派分裂後の真実』 宝島社、2018年5月23日。ISBN 9784800283504
  • 『ありがとうU.W.F. 母さちに贈る』 鈴木浩充著、MIKHOTO出版、2018年7月10日。ISBN 9784991022906
  • 『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』 田崎健太著、集英社インターナショナル、2018年7月26日。ISBN 9784797673562

脚注編集

  1. ^ 山崎一夫1998年8月2日に新日本プロレスで行われたG1 CLIMAX決勝戦の橋本真也戦、2000年2月26日に田村潔司リングスで行われたKOKトーナメント1回戦のヘンゾ・グレイシー戦で、それぞれ使用している。
  2. ^ 山本小鉄前田日明 『日本魂』 講談社
  3. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.46』P30
  4. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.32』P19
  5. ^ a b ゴング格闘技』8月号、日本スポーツ出版社、1987年。
  6. ^ a b 北之口太「大山の告白」『一撃の拳 松井章圭』講談社(原著2005年4月20日)、第一刷、214頁。ISBN 4062127423
  7. ^ 『Gスピリッツ Vol.46』P32
  8. ^ 『日本プロレス事件史Vol.8』P33
  9. ^ 『日本プロレス事件史Vol.2』P77
  10. ^ a b c 『日本プロレス事件史Vol.3』P32-34
  11. ^ 金沢克彦 (2012年2月2日). “前田日明vs上田馬之助|金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」”. 2015年9月11日閲覧。
  12. ^ 前田日明の弁によれば「やれば必ずどちらかが大怪我をする。それでもいいのか」と尋ねたが黙殺されたうえ「おい、どうした。セメントだぞ」とけしかけられたという。なお、アンドレ・ザ・ジャイアントのセコンドに付いていたのは若松市政
  13. ^ この藤波の流血事件について前田は、レガースの下に履いていたシューズの金具が額を切ってしまったと語っている。また、ミスター高橋も著書の中で偶発的な事故だったと明言している。
  14. ^ 蝶野が明かす「旅館丸ごと破壊」の真実”. 東京スポーツ (2017年1月10日). 2017年10月23日閲覧。
  15. ^ 武藤敬司が伝説の“旅館破壊事件”語る 900万円の損害賠償”. デイリースポーツ (2017年2月23日). 2017年10月23日閲覧。
  16. ^ 『俺たちのプロレス UWFあの頃と今』P84(2014年、双葉社ISBN 4575454419
  17. ^ 『日本プロレス事件史Vol.3』P52