藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年大正3年)12月16日 - 2006年平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。

来歴・人物 編集

鹿児島県出身。旧姓:馬場。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1936年昭和11年)、東京帝国大学法学部を卒業し、翌年外務省へ入省。外交官としてアメリカで勤務した。戦後は連合国との連絡にあたる終戦連絡事務局連絡官として、新憲法の政府案を説明する佐藤達夫内閣法制局次長の通訳をした[1]

外務省条約局課長時代には、日米講和条約の首相演説草稿を作成[1]。条約局長時代には日韓条約に取り組む[1]1968年(昭和43年)、駐オランダ大使就任[1]1972年(昭和47年)、駐タイ大使就任[1]1976年(昭和51年)、国連海洋法会議主席代表就任[1]

1977年(昭和52年)4月より最高裁判所判事。チッソ川本事件の最高裁判決では公訴棄却の結論を支持する多数意見に対し、「公訴棄却の原判決を確定されることは、本件のような暴力の行使を容認するものと誤解されるおそれがある」と反対意見を表明した[2]

1984年(昭和59年)12月に定年退官[3]

1987年(昭和62年)、春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。

2006年10月6日、自宅で死去、91歳[4]

妻の芙佐子は駐チェコスロヴァキア公使を務めた藤井啓之助の娘で、伊藤博文の曾孫に当たる。子の藤崎一郎は外交官で外務審議官や駐アメリカ特命全権大使を歴任。娘婿の高橋雅二も外交官で法務省入国管理局長、南アフリカ駐箚大使や財団法人交流協会理事長を歴任した。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403 
  • 交詢社 第69版 『日本紳士録』 1986年
  • 秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年5月)「藤崎万里」

外部リンク 編集