西園寺致季

江戸時代中期の公卿。従一位・左大臣。西園寺家28代。母は家女房

西園寺 致季(さいおんじ むねすえ)は、江戸時代中期の公卿中宮権大夫西園寺実輔の子。幼名は千撻丸。官位従一位左大臣

 
西園寺致季
時代 江戸時代中期
生誕 天和3年11月9日1683年12月26日
死没 宝暦6年7月4日1756年7月30日
改名 千撻丸→西園寺致季
別名 号:円寿光院
官位 従一位左大臣
主君 霊元天皇東山天皇中御門天皇桜町天皇
氏族 西園寺家
父母 父:西園寺実輔、母:家女房
家女房
公晃飛鳥井雅香小倉宣季今出川誠季橋本実理大宮貞季
テンプレートを表示

経歴 編集

貞享2年(1685年)に叙爵してから清華家として速いスピードで昇進し、侍従左近衛少将左近衛中将を経て、元禄9年(1696年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言権大納言宝永3年(1706年)から宝永5年(1708年)に亘ってと正徳2年(1712年)から正徳3年(1713年)にわたっての二度に亘り神宮伝奏を務めた。この間踏歌節会外弁を務める。

享保9年(1724年右近衛大将となる。享保13年(1728年)には内大臣。翌年従一位を授与された。元文3年(1738年)には右大臣延享2年(1745年)には左大臣となったが同年中に辞職している。

宝暦6年(1756年)、致季の病が重くなると、息子の公晃から従弟である関白一条道香に対して清華家極官である太政大臣への昇進を求める嘆願が出される。道香は武家伝奏柳原光綱広橋兼胤を呼び出し[1]、「摂家ですら容易に任じられないのに清華家が願うこと自体すべきではない」と述べ、桃園天皇には事実の報告するが不相応であるとの見解を示している(『広橋兼胤公武御用日記』宝暦6年7月2日条)[2]。かくして、致季の太政大臣昇進の嘆願は認められることは無いまま死去した。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 当時の太政大臣への昇進は江戸幕府による許可を得る慣例となっていたため(長坂、2018年、P106-107.)。
  2. ^ 長坂良宏「近世朝廷における太政大臣補任の契機とその意義」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年。
  3. ^ 和宮親子内親王の高祖父。