親玄(しんげん、建長元年(1249年)-元亨2年3月16日1322年4月3日))は、鎌倉時代後期の真言宗の僧侶。久我通忠の子。

醍醐寺親快の門人で建治2年(1276年)に師が没すると同寺の地蔵院を継承した。ところが、彼の継承に反対する僧侶との争いに巻き込まれ、正応2年(1289年)以前に鎌倉に下向して、将軍久明親王および執権北条貞時の護持僧となった。

鎌倉幕府の信任が厚く、永仁6年(1298年)にその推挙で醍醐寺座主に任じられて程なく上洛、正安元年(1299年)に一旦座主を辞するも、嘉元元年(1303年)に再任されて同3年(1305年)に座主を辞任して再び鎌倉に下っている。徳治元年(1306年)に鎌倉滞在のまま東寺長者大僧正に任じられるが、東寺長者は翌年辞任している。晩年は鎌倉の永福寺の別当を務めた。

『親玄僧正日記』と呼ばれる日記を残しているが散逸して、現在は醍醐寺に正応3年(1292年)より3年分が現存している(長く、室町時代の『満済准后日記』に混入してしまっていた)。現存する期間は、鎌倉大地震平禅門の乱と重なっており、当時の幕府や鎌倉の宗教界の状況を知る史料となっている。

参考文献編集