謝 述(しゃ じゅつ、390年 - 435年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚は景先。小字は道児。本貫陳郡陽夏県。兄は謝裕・謝純・謝甝。

経歴編集

謝允(東晋の太保謝安の次兄の謝拠の次男)の子として生まれた。兄の謝純に従って江陵に下った。412年義熙8年)、謝純が殺害されると、謝述は兄の喪を守って建康に帰還した。劉裕豫州に赴任すると、謝述は召されて主簿となった。後に太尉参軍に転じた。

415年(義熙11年)、劉裕の下で従軍して司馬休之を討ち、吉陽県五等侯に封じられた。劉義符の下で世子征虜参軍となり、主簿に転じた。宋国の尚書祠部郎となり、また劉義符の下で世子中軍主簿となった。420年永初元年)、劉義符が南朝宋の皇太子に立てられると、謝述は太子中舎人となった。後に長沙国内史として出向して、善政で知られた。425年元嘉2年)、建康に召還されて中書侍郎に任じられた。426年(元嘉3年)、武陵郡太守として出向した。彭城王劉義康の下で驃騎長史となり、南郡太守を兼ねた。429年(元嘉6年)、劉義康が司徒として入朝すると、謝述はその下で司徒左長史となり、左衛将軍の号を受けた。清廉で知られ、劉義康の厚遇を受け、殷景仁劉湛らとも深い交友関係にあった。

雍州刺史張邵が不正な蓄財のために廷尉に下されると、謝述は張邵の以前の勲功について述べて寛恕を請い、文帝に容れられた。呉郡太守に任じられたが、病のために赴任しなかった。病が快癒すると、呉興郡太守に任じられた。435年(元嘉12年)、死去した。享年は46。その柩が建康に送られるにあたっては、殷景仁と劉湛が迎えに出て、船に同乗して涙を流した。

子女編集

  • 謝綜(? - 445年、太子中舎人、母の弟の范曄の反乱計画に連座して処刑された)
  • 謝約(? - 445年、范曄に連座して処刑された)
  • 謝緯(謝朓の父。文帝の五女の長城公主を妻に迎え、兄2人が処刑されると広州に流された。孝建年間に建康に帰還した。泰始年間に正員郎中に上った)

伝記資料編集