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豊錦 喜一郎(とよにしき きいちろう、1920年2月3日 - 1998年9月26日)は、昭和初期の大相撲力士出羽海部屋所属、本名はハーリー尾崎喜一郎[1]、最高位は西前頭20枚目。身長188cm、体重96kg。後年に太平洋戦争の影響で日本に帰化したが、アメリカ合衆国籍を持つ者として初の関取として記録されている。

豊錦 喜一郎 Sumo pictogram.svg
Toyonishiki Scan10062.JPG
十両時代(?)の豊錦
基礎情報
四股名 尾崎 喜一郎 → 豊錦 喜一郎
本名 ハーリー尾崎喜一郎
生年月日 1920年2月3日
没年月日 (1998-09-26) 1998年9月26日(78歳没)
出身 福岡県築上郡(出生はアメリカ合衆国コロラド州
身長 188cm
体重 96kg
BMI 27.16
所属部屋 出羽海部屋
得意技 左四つ、寄り、吊り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 西前頭20枚目
生涯戦歴 74勝51敗10休(15場所)
幕内戦歴 6勝4敗10休(2場所)
データ
初土俵 1938年1月場所
入幕 1944年5月場所
引退 1945年11月場所
備考
2019年7月30日現在

目次

経歴編集

農業移民の子としてアメリカ合衆国コロラド州に生まれる[1]横綱にあこがれを抱いていた父親の意向で1937年に来日、出羽海部屋へ入門[1]。翌1938年1月場所に初土俵を踏む。188センチもの長身を生かしての左四つからの吊りや寄りを得意とした[1]。順調に番付を上げたが、1941年、太平洋戦争により日本は母国と戦う羽目になった。本人曰く「米国の外交官は、もしワシが米国側に徴兵された場合補給部隊に配属するつもり、と説明していた。」とのことであり、玉乃海太三郎は帰参後「ワシの場合は砲台の運搬を始めとして補給作業が大半だった。力士は徴兵されても運搬作業ばかり任されるのが関の山。決して直接戦闘する機会なぞやってこない。」と豊錦を擁護したという[要出典]

1943年1月新十両。アメリカ合衆国籍初の関取であり、「ワシントン場所を開くまでにはもっと強くならねば・・・・・・」と意気盛んであった[1]。しかし、意気とは裏腹に戦争中は「アメリカのスパイ」と睨まれて肩身の狭い思いをし、特別高等警察の厳しい監視を受けた[1]。地方への移動では帰京後に警察に報告しなければならなかった。この間にアメリカ国籍では巡業が難しくなっていたこともあって周囲の説得により日本国籍を取得[1]、出身地を「福岡県」に変更した。十両で3場所連続勝ち越しののち、1944年5月に新入幕[1]。勝ち越したがまもなく兵隊に取られた[1]。終戦後復員したが、そのまま土俵に上がることもなく廃業した。廃業後は進駐軍通訳をしていた[1]。しばらくしてから江東区で旅館の経営を始める。アメリカ国籍は「再取得」あるいは「再取得しなかった」[1]の2説あるが、1960年に日本国籍者として渡米した[1]。境川理事長(元横綱・佐田の山)の年寄株改革によって日本相撲協会が大揺れした1996年以降体調が悪化し、1998年に死去。兄弟のうち末弟は、前頭にいたころはヨーロッパ戦線に出征し、妹は2019年7月現在サンディエゴに健在である[1]

主な成績編集

  • 通算成績:74勝51敗10休 勝率.587
  • 幕内成績:6勝4敗10休 勝率.600
  • 現役在位:15場所
  • 幕内在位:2場所

場所別成績編集

 

                                 
豊錦 喜一郎
春場所 夏場所 秋場所
1938年
(昭和13年)
(前相撲) 東序ノ口9枚目
4–3 
x
1939年
(昭和14年)
東序二段18枚目
4–3 
西三段目37枚目
5–3 
x
1940年
(昭和15年)
東三段目15枚目
4–4 
東三段目8枚目
6–2 
x
1941年
(昭和16年)
西幕下21枚目
5–3 
西幕下12枚目
5–3 
x
1942年
(昭和17年)
西幕下6枚目
4–4 
西幕下4枚目
5–3 
x
1943年
(昭和18年)
西十両14枚目
8–7 
東十両9枚目
10–5 
x
1944年
(昭和19年)
西十両筆頭
8–7 
西前頭20枚目
6–4 
x
1945年
(昭和20年)
x x 東前頭
引退
0–0–10
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注編集

参考文献編集

関連項目編集