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賀田 金三郎(かだ きんざぶろう、安政4年9月16日/グレゴリオ暦 1857年11月2日 - 1922年7月4日)は、日本の実業家である[1][2]

かだ きんざぶろう
賀田 金三郎
Kada Kinzaburō.jpg
賀田金三郎
生誕 1857年11月2日 グレゴリオ暦
安政4年9月16日 旧暦
日本の旗 日本 長門国
(現在の山口県萩市
死没 1922年7月4日
職業

実業家


活動期間 1885年 - 1922年
親戚 田畑健造

目次

人物・来歴編集

1857年11月2日(安政4年9月16日)、長門国萩(現在の山口県萩市)の札差商家に生まれる[1][2]漢学を学び、やがて家業を継ぐ[1]

1885年(明治18年)、東京に移り、藤田伝三郎の藤田組(藤田財閥)に入社する[1][2]。その後、大倉喜八郎の大倉組(大倉財閥)に移り、同社広島支店長を経て、1895年(明治28年)に日清戦争が終結すると、同社台湾総支配人に就任する[1][2]。1897年(明治30年)には、台湾で会社設立、交通業を手がける[2]

1899年(明治32年)、賀田組を設立、台湾各地で、用達、建築業、運送業、鉄道建設や港湾事業を行った[1][2]。1907年(明治40年)4月に大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して日本皮革(現在のニッピ)が設立されると、甥の田畑健造とともに、取締役に名を連ねる[3]

1910年(明治43年)の日韓併合後は、朝鮮半島も事業領域とした[1]。同年7月、甥の田畑が福宝堂を設立したが、この本社所在地は、賀田が所長を務めた製架機械製造所の土地であった[4]

1922年(大正11年)7月4日、死去した[1][2]。満64歳没。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h 賀田金三郎朝日日本歴史人物事典コトバンク、2012年5月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 賀田金三郎デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年5月18日閲覧。
  3. ^ 『開国五十年史』、p.274.
  4. ^ 『墨田區史』。

参考文献編集

  • 芳誼会『賀田金三郎翁小伝』、印刷:吉武源五郎、1923年
  • 大隈重信『開国五十年史』、開国五十年史発行所、1970年
  • 墨田区『墨田區史』、東京都墨田区役所、1959年

関連項目編集

外部リンク編集