鍋島 直章(なべしま なおあき)は、江戸時代後期の肥前国佐賀藩士。白石鍋島家第6代当主。

 
鍋島直章
時代 江戸時代
生誕 天明2年2月5日1782年3月18日
死没 文久元年(1861年2月
別名 央之助、山城、逸仙
墓所 佐賀県佐賀市田代本行寺
主君 鍋島斉直斉正
肥前佐賀藩
氏族 鍋島氏
父母 父:直賢、母:側室
正室:於變(鍋島治茂の娘)
直喬
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略歴編集

天明2年(1782年)2月5日、佐賀藩白石邑主鍋島直賢の子として生まれる。文化2年(1805年)9月、藩主鍋島斉直の妹・於變と結婚する。文化4年(1807年)5月に父直賢が死去し、家督を相続した。

文化11年(1814年)、多久茂鄰が財政悪化の責任を問われて請役を罷免され、直章が藩財政を担う相続方頭人を命じられる。

文政2年(1819年)の財政難により、参府繰り延べを求めるため、斉直に拝謁を求めて登城したが、御側頭の有田権之允に阻まれた。文政4年(1821年)、大坂借銀方破綻により、家中に1500両もの借上を課され、度重なる重税に反発する家中十五組に同調し有田と対立した。

文政6年(1823年)、有田の画策で、それまで国元の重臣が担っていた相続方、請役も側役が兼任することとなった。同年8月、家中に3年間の相続米渡し(知行制の停止)が命じられ、家中の激しい不満を受けて、文政7年(1824年)7月、直章、鍋島茂義、鍋島茂延(横岳鍋島家)、鍋島茂堯(神代鍋島家)ら重臣が変名を使って江戸に出府する。9月に、江戸藩邸で側役有田権之充、納富十右衛門を拘束し、目付を付けて国元に護送して切腹させた(文政7年の政変)。

文政8年(1825年)3月、政雑惣心遣と仕与所頭人を兼務し、斉直に藩政を任されるが、10月に世子斉正が将軍家斉の娘・盛姫と結婚し、その莫大な費用で藩財政はますます窮乏した。文政10年(1827年)、蔵方役人の中牟田三左衛門が、窮余の策で諸役方の必要な手続きを踏まずに、独断で米筈(藩札)を発行したが、その米筈が無効とされ騒動となり、中牟田が切腹する事件が起こった(赤札事件)。実際は、中牟田の独断ではなく、直章や茂堯(神代鍋島家)も発行に関与したとされ、3月に隠居し、家督を直喬に譲る。

天保12年(1841年)、再家督して藩主斉正に仕えた。のち、孫の直暠に家督を譲り隠居する。文久元年(1861年)2月に死去し、本行寺に葬られた。享年80。

参考文献編集

参考サイト編集