長尾 定景(ながお さだかげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将長尾氏2代当主。懐島景義大庭景親らの従兄弟にあたる。

 
長尾定景
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:新六
墓所 神奈川県鎌倉市植木の久成寺
主君 三浦義村
氏族 長尾氏
父母 父:長尾景弘
兄弟 為宗定景
景茂胤景光景友景
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略歴

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初代当主・長尾景弘の子として誕生。治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると兄・新五郎為宗及び従兄弟の大庭景親・俣野景久と共に平家方に加わり、石橋山の戦いで抗戦する。この戦いで、頼朝の寵臣で三浦党の佐奈田義忠を討ち取っている。

後に頼朝に降伏し、その身柄を佐奈田義忠の実父・岡崎義実に預けられている。定景が法華経を唱えるのを見た義実はこれを殺すのを止め、助命するよう頼朝に懇願している。これが認められ、以後は同族・三浦氏郎党として勇名を馳せることになる。

建保7年(1219年)、既に老齢であった定景であったが、3代将軍源実朝を殺害した公暁討伐の命を受ける。最初は固辞したものの度重なる要請により、老骨に鞭を打ってこれに服した。三浦義村北条義時と連携を取って公暁を騙し、定景以下五名を迎えの使者として向かわせた。定景は鶴岡八幡宮の裏で公暁と会い、太刀をとって公暁の頸を取るという武功を得た。

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