長尾憲景
長尾 憲景(ながお のりかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。白井長尾氏8代当主。上野国白井城主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正8年(1511年) |
死没 | 天正11年4月2日(1583年5月23日) |
改名 | 景房(初名)→憲景→市井斎(号) |
別名 | 通称:孫四郎 |
戒名 | 梁雄玄棟 |
墓所 | 群馬県渋川市上白井の空恵寺 |
官位 | 左衛門尉 |
主君 | 上杉憲寛→憲政→謙信→景虎→武田勝頼→滝川一益→北条氏直 |
氏族 | 総社長尾氏→白井長尾氏 |
父母 |
父:長尾顕忠または長尾顕景、 養父:長尾景誠 |
兄弟 | 景孝、憲景、景総 |
妻 | 勅使河原左近将監娘 |
子 | 憲春、輝景、景広 |
略歴編集
総社長尾氏6代当主・長尾顕忠、またはその庶流・高津長尾家5代当主・長尾顕景の子とされる。白井長尾氏7代当主・長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。
初め景房を名乗っていたが、主君で関東管領・上杉憲政より偏諱を受けて憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐国の武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失うと越後国の上杉謙信[1]の許へ逃れ、その後は謙信に従って各地を転戦した。永禄12年(1569年)、越相同盟が結ばれ上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。
元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められると八崎城に逃れた。この際、次男(嫡男)・輝景に家督を譲った[2]。天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景虎に与して敗れ、乱後は上杉氏を離れて武田勝頼、滝川一益、後北条氏に仕えた。