関長克
関 長克(せき ながかつ)は、備中国新見藩の第9代(最後)の藩主。新見藩関家10代。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 天保11年10月26日(1840年11月19日) |
死没 | 明治10年(1877年)3月17日 |
戒名 | 舜徳院静質乾斎大居士 |
官位 | 従五位下・備前守、民部少輔、伊勢守、従五位上 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 備中新見藩主 |
氏族 | 関氏 |
父母 |
父:関長吉、母:不詳 養父:関長道 |
妻 | 関長道の長女・亭以 |
子 |
伊勢長愛、天衣 養子:天留、博直 |
略歴
編集天保11年(1840年)10月26日、第6代藩主・関長輝の次男(または三男)である関長吉の長男として生まれる。
安政4年(1857年)に第8代藩主・長道の婿養子となり、安政5年(1858年)10月16日、長道の死により家督を継いだ。安政6年(1859年)8月15日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下・備前守に叙任する。後に民部少輔、伊勢守に改める。元治元年(1864年)5月13日、従五位上に昇進する。幕末期は大坂城の加番や京都の守備役を務めた。
慶応4年(1868年)2月6日、上洛し、新政府側に与した。同年2月22日、新政府から備中国内の幕領管理を命じられたのにともない、帰藩を願い出る。同年4月25日、備中国内の幕領管理の任務を解かれる。また、備前岡山藩と共に伊予松山藩征伐に参加した。明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。明治10年(1877年)3月17日に死去した。享年38。関家の家督は妻の亭以が相続した。
系譜
編集当主 | ||
---|---|---|
先代 関長道 |
新見藩関家 1858年 - 1877年 |
次代 関亭以 |