阿曽沼 元郷(あそぬま もとさと)は、安土桃山時代武将毛利氏家臣。安芸国安芸郡世能荒山荘[1]を本拠地とした国人であった阿曽沼氏の当主で鳥籠山城主。祖父は阿曽沼広秀、父は阿曽沼元秀

 
阿曽沼元郷
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長6年8月3日1601年8月30日
別名 通称:五郎左衛門尉
主君 毛利輝元
長州藩
氏族 藤姓足利氏阿曽沼氏
父母 父:阿曽沼元秀、母:不詳
正室:穂井田元清の娘(毛利秀元の養女)
女(阿曽沼元理正室)
養子:元理天野元政の子)
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生涯 編集

安芸国安芸郡世能荒山荘[1]を本拠地とした国人であった阿曽沼元秀の嫡男として生まれる。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、父・元秀が毛利秀元に従って朝鮮に渡り、各地を転戦した後に蔚山における突貫工事での蔚山倭城築城に加わったが、完成目前の同年12月22日軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000に急襲され、同じく毛利氏家臣である冷泉元満都野家頼らと共に戦死した(蔚山城の戦い)。

元秀戦死の直前の11月29日には祖父・広秀も死去しており、元秀の戦死に伴って元郷が家督を継いだが、慶長6年(1601年8月3日に死去。

当時、元郷には嗣子がいなかったが正室が妊娠していたため、同年8月26日に輝元は佐世元嘉に書状を送り、男子が生まれた場合はその男子に阿曽沼氏を相続させ、女子が生まれた場合は毛利秀元や天野元政と相談した上で決定するとした。翌年に生まれた子は女子であったため、慶長7年(1602年6月14日に天野元政の子・兵七(後の阿曽沼元理)加冠状と「元」の偏諱を与えた上で、元郷の娘と婚姻させて阿曽沼氏を相続させた。また、正室は慶長12年(1607年)に毛利元鎮に再嫁している。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 萩藩閥閲録』巻35「阿曽沼二郎三郎」
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060  国立国会図書館デジタルコレクション