陳 懋(ちん ぼう、1380年 - 1463年)は、明代軍人本貫寿州

生涯編集

陳亨の末子として生まれた。はじめ舎人として従軍し、功を立てて指揮僉事となった。陳亨の兵を率いて功績が多く、右都督に累進した。1403年永楽元年)、寧陽伯に封じられ、禄1000石を受けた。1408年(永楽6年)3月、征西将軍の号を受け、寧夏に駐屯し、降兵を慰撫した。1409年(永楽7年)秋、北元丞相昝卜と平章・司徒・国公・知院十数人が人々を率いて相次いで来降した。平章の都連らが離反して去ると、陳懋はこれを追って黒山で捕らえ、その部衆や家畜を収容した。爵位を寧陽侯に進められ、禄200石を加増された。

1410年(永楽8年)、陳懋は永楽帝の第一次漠北遠征に従い、左掖を監督した。1413年(永楽11年)、寧夏の辺境を巡察した。ほどなく山西陝西二都司および鞏昌平涼諸衛の兵を率いるよう命じられ、宣府に駐屯した。1414年(永楽12年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、左哨を管轄した。忽失温で戦い、成山侯王通とともに軍の先頭に立ち、都督朱崇らがこれに乗じて、大勝をおさめた。1415年(永楽13年)、陳懋は再び寧夏に駐屯した。1422年(永楽20年)、永楽帝の第三次漠北遠征に従った。御前精騎を率いて敵軍を屈烈河で破った。別に5000騎を率いて屈烈河の東北を巡り、残党を捕らえ、山沢中でこれを殲滅した。軍を返すと、武安侯鄭亨に輜重を率いて先行させ、陳懋は狭隘な地に兵を待ち伏せさせた。敵軍がやってくると、伏兵で攻撃し、敵軍の過半を死なせた。北京に帰ると、龍衣玉帯を賜り、陳懋の娘が麗妃に冊立された。1423年(永楽21年)、陳懋は陝西・寧夏・甘粛三鎮の兵を率いて、北元のアルクタイに対する遠征(第四次漠北遠征)に従い、先鋒をつとめた。1424年(永楽22年)、再び先鋒をつとめ、永楽帝の第五次漠北遠征に従った。

永楽帝が楡木川で死去したとき、明の六軍はいずれも外地にあり、北京の守備は弱体であった。洪熙帝は陳懋と陽武侯薛禄に精鋭の騎兵3000を率いて帰還させ、北京を守らせた。陳懋は前府を管掌し、太保の位を加えられ、侯爵を世襲する権利を与えられた。1426年宣徳元年)、楽安州に拠る朱高煦の討伐に従った。凱旋すると、寧夏に赴任して駐屯した。1428年(宣徳3年)、霊州城への移鎮を上奏した。黒白2羽のウサギを献上して、宣徳帝に喜ばれ、帝自らが描いた馬の絵を賜った。陳懋は寧夏に駐屯すること久しく、威名は漠北に鳴り響いた。宣徳帝の信任を頼みに勝手気儘に振る舞い、巨万の財産を蓄えた。たびたび弾劾を受けたが、宣徳帝は曲げてこれを許し、陳懋の不正に蓄えた財産を没収するよう命じた。

1435年(宣徳10年)、英宗が即位すると、陳懋は張輔とともに参議朝政を命じられ、平羌将軍として出向し、甘粛に駐屯した。その冬、敵が駐屯所を攻撃してくると、陳懋は兵を派遣して救援し、敵を撃退し、敵兵を斬り捕らえて報告した。参賛侍郎の柴車は陳懋が規律を失って敵の侵攻を招き、残された老弱な敵兵の身柄を奪って、都指揮の馬亮らが功によって賞を受けるのを妨げたと弾劾し、斬刑に相当すると論告した。勅命により陳懋は一死を免じられたが、禄を剥奪された。長らくを経て禄をもどされ、奉朝請とされた。1448年正統13年)、福建鄧茂七の乱が起こった。都御史の張楷がこの反乱を討ったが鎮圧できず、陳懋が征南将軍の号を受けて、総兵官とされ、京営・江浙の兵を率いて討伐に向かった。陳懋が浙江に達すると、兵を分けて海口を押さえようという者がいたが、陳懋は「賊を死なせるのはわたしだ」といって許可しなかった。1449年(正統14年)、陳懋が建寧に到着すると、鄧茂七はすでに戦死しており、その残党が尤渓沙県に集まっていた。官軍の諸将はこれを殲滅しようと望んだが、陳懋は「それは賊の心を堅くするだけだ」といって、招撫して下すよう命じ、反乱軍の多くを降伏させた。道を分かれて追捕にあたり、反乱を全て平定した。沙県で反乱が再び起こったが、平定できなかった。ときに土木の変で英宗がオイラトに捕らえられて北方に連行され、景泰帝が立つと、陳懋は軍を返すよう命じられた。このとき陳懋は弾劾を受けていたが、反乱平定の功績により不問とされた。そのまま太保の位を加えられ、中府を管掌し、宗人府の事務を兼領した。1457年天順元年)、英宗が復位すると、陳懋は禄200石を加増された。1463年(天順7年)、死去した。享年は84。濬国公の位を追贈された。は武靖といった。

子女編集

  • 陳晟(長男、罪を受けた)
  • 陳潤(兄の陳晟が罪を受けたため、後嗣として寧陽侯となった)
  • 陳瑛(兄の陳潤が死去すると、禄を半減された上で寧陽侯位を嗣いだ。陳晟の子の陳輔が成長すると、陳輔に侯位を嗣がせた)
  • 陳氏(永楽帝の後宮に入り、麗妃に冊立された)

参考文献編集

  • 明史』巻145 列伝第33