隠密(おんみつ)とは、主君などの密命を受けて秘かに情報収集などに従事する者(江戸時代の密偵)。

概要編集

隠密は南北朝時代から存在したが、隠密が「忍びの者」すなわち忍者として活躍したのは戦国時代で、戦乱の終息に伴い幕府や諸大名 に属した。 江戸時代初期(寛永初年頃)までは、伊賀忍者甲賀忍者の一部が幕府に登用され隠密としての職務を掌ったが、その後、幕府の組織や職制が固まるにつれ、御広敷や明屋敷番、鉄砲百人組などに組み込まれた元忍者の仕事は、城中の警備任務中心へと変貌していった。

徳川幕藩体制下編集

寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発する。島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱近江国水口宿で出迎えた甲賀衆百余名は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許されることとなる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの隠密活動であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出したこともあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらることなく、戦後に仕官することは叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった[1]

多くの隠密を用いて諜報活動を行なったのは徳川家光徳川家綱 / 時代の大目付中根正盛である。中根は配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化し情報網を張り巡らせ活用した。 隠密活動の成果として有名なものは、慶安の変の際に、老中・松平信綱と中根正盛が隠密集団を活用して、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力を崩壊に追い込んだことが挙げられる[2][3]

代表的なものは、徳川吉宗が紀州藩より連れてきた御庭番である。御庭番は公式には江戸城の奥庭を管理する役職であったが、実際には将軍や老中以下幕閣の命を受けて隠密活動に従事した[4]

他にも目付支配下の徒目付小人目付勘定奉行支配下の普請役鳥見役人などが隠密活動に従事していた。彼らは身分的には低かったが、植村政勝村垣範正など御庭番出身で歴史に名を残した人物も存在する。また、間宮林蔵も晩年は幕府の隠密になったとされ、竹島事件シーボルト事件などに関与したといわれている。また、町奉行同心が行っていた三廻のうちに江戸市中の風説を調査する「隠密廻」が存在していた。諸藩においても下級武士などが隠密役に任じられて領内外の情勢を探らせた。

脚注編集

  1. ^ 藤田 2018, p. 25.
  2. ^ 中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索 /『歴史くらぶ』
  3. ^ 第4回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その4 / ニュースサービス日経 江古田
  4. ^ 【江戸時代を学ぶ】 公儀隠密の実態、御庭番とは? 〈25JKI00〉

参考文献編集

  • 松尾美恵子 『国史大辞典 2「隠密」』 吉川弘文館、1980年。ISBN 9784642005029 
  • 北原章男 『日本史大事典 1「隠密」』 平凡社、1992年。ISBN 9784582131017 
  • 藤田達生 『忍者研究 第1号「論文 / 伊賀者・甲賀者考 (三 . 公儀隠密の時代 pp.22~26.)」』 国際忍者学会、2018年。ISSN 24338990 

関連項目編集