青木重兼
青木 重兼(あおき しげかね)は、江戸時代前期の大名。摂津国麻田藩2代藩主。旗本青木可直[5]の長男で、初代藩主青木一重の養子。諱は重壽(しげなか)ともいう。官位は従五位下甲斐守。
方広寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長11年12月29日(1607年1月27日) |
死没 | 天和2年9月14日(1682年10月14日) |
改名 | 端山性正(法名) |
別名 | 重壽、通称:源五、法号:端山、法諱:性正 |
戒名 | 竹岩院殿端山性正大和尚 |
墓所 | 方広寺(兵庫県三田市末吉) |
官位 | 従五位下甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠、家光、家綱 |
藩 | 摂津麻田藩主 |
氏族 | 青木氏 |
父母 |
父:青木可直、母:関右京亮の娘 養父:青木一重 |
兄弟 | 重兼、女(谷衛之室)、直澄[1]、直影[2]、女(朝倉庄三郎室)、正重 |
妻 | 正室:酒井忠利の養女(酒井忠季の娘) |
子 |
慶雲院(青木重正(重成)正室) 養子:可一 [3]、重成 [4] |
略歴
編集慶長11年(1606年)、旗本・青木可直[6]の長男として播磨国姫路にて誕生した。慶長15年(1610年)、徳川家康に初めて拝謁する。
麻田藩初代藩主・青木一重には嗣子がなく、正重を養嗣子として迎えていたが、大坂の陣および豊臣氏の滅亡を機に病気を理由に廃嫡して[7]、元和5年(1619年)の一重の隠居に伴い、その養嗣子となって麻田藩1万石を継いだ。
寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行し、従五位下・甲斐守に叙任された。寛永4年(1627年)、飛び地となっていた伊予国の領地を、摂津豊島郡、川辺郡内に移転される。寛永13年(1636年)、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。
寛永18年(1641年)より、京都御室の仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、花園の妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。明暦2年(1656年)、摂津の普門寺で中国より渡来した禅師隠元と知遇を得た。万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に佛日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致した。
寛文3年(1663年)、摂津川辺郡の多田院再興の奉行も務めた。寛文7年(1667年)には、萬福寺の大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。
隠元の招きにより明暦元年(1655年)に木庵性瑫が中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。この木庵を開山として、寛文10年(1670年)に江戸に瑞聖寺を創建した。 寛文12年(1672年)12月9日、隠居(致仕)した。重兼には女児しか子がなかったため、婿養子として重成(重正)[4]を迎えて家督を譲った。
以上のような縁もあり、重兼は仏門に傾倒しており、延宝7年(1679年)に萬福寺第2代住持となっていた木庵の下で出家した。僧名は端山性正という。その後、川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた。後には自らがその2世住持となった。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 丹治氏青木」『寛政重脩諸家譜 第4輯』國民圖書、1923年、523頁 。