高野公男
高野 公男(たかの きみお、1930年[1]2月6日 - 1956年9月8日[1])は日本の作詞家である。本名は高野 吉郎(-きちろう)[1]。茨城県西茨城郡北山内村(現:笠間市大郷戸)出身。東洋音楽学校(現:東京音楽大学)中退。
高野 公男 | |
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生誕 | 1930年2月6日 |
出身地 | 日本 茨城県西茨城郡北山内村(現:笠間市大郷戸) |
死没 | 1956年9月8日(26歳没) |
学歴 | 東洋音楽学校(現:東京音楽大学)中退 |
ジャンル | クラシック |
活動期間 | 1954年 - 1956年 |
経歴・人物 編集
1954年[1]にビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして一躍名の知られる作詞家となった。
その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。
しかし1955年、『別れの-』のヒットから間もなく公男は肺結核に侵され翌1956年9月8日、国立水戸病院で死去、26歳没。