江夏豊

日本の元プロ野球選手、評論家

江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、兵庫県尼崎市出身(奈良県吉野郡生まれ[1][2])の元プロ野球選手投手)、解説者評論家タレント

江夏 豊
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 (1948-05-15) 1948年5月15日(72歳)
身長
体重
179 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1966年 第1次ドラフト1位
初出場 1967年4月13日
最終出場 1984年7月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

2020年現在でも日本記録であるシーズン401奪三振を達成したほか、NPB最多タイ記録となる最優秀救援投手(現在の最多セーブ投手)を5回獲得している。プレーそのものについても「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など多くのエピソードを持つ。

経歴編集

兄から言われて左利きに編集

鹿児島県出身の母親が大阪にいた頃に大阪大空襲が起こり、疎開先の奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで豊は生を受けた[1]。間もなく両親が離婚、父親は失踪したため、生後半年で母親の故郷である鹿児島県日置郡市来町(現・いちき串木野市)の実家へ引っ越して5年間を過ごす。その後、母親と二人の兄と共に兵庫県尼崎市へ引っ越し、尼崎市立園田中学校を卒業、高校卒業まで尼崎で育った[2]。江夏の兄弟姉妹は全員父親が異なる複雑な環境で、江夏姓も母方の姓だった。なお、「江夏」とは南九州に多い姓で[1]、母親は「先祖を辿ると島津藩の家老に行き当たる」を語っていた[3]。また、霧島酒造を創業したのは祖父だという[2]

幼少期は、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、江夏自身は右利きだったにも関わらず、強制的に左利きへ矯正された[4]

尼崎市立園田中学校では野球部へ入部するも、入部2ヶ月を経過しても球拾いしかさせてもらえないことに不満を抱いて上級生に直訴するが、これが乱闘騒ぎへ発展してしまい、野球部を退部する。この時、監督だった教師から「野球は色んなスポーツの結晶だから、色んなスポーツを体験するように」と諭され、バレーボールラグビー相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。陸上部では砲丸投げの選手として活躍し、県大会で優勝したこともある。

鈴木啓示との投げ合い編集

大阪学院大学高等学校へ入学後に本格的に野球を始めるが、高校時代は制球力に難があり、それを理由に変化球を一切教えてもらえなかったが、代わりに磨き上げた直球に球威が増し、投球以外に様々な駆け引きで活躍する。1966年全国高等学校野球選手権大会大阪大会予選では準決勝に進出するが、のちに阪神タイガースで同僚となる奥田敏輝大阪府立桜塚高等学校)と投げ合って惜敗するも、予選7試合を全て完投して僅か3失点という好成績を残した。この活躍がスカウトの目に留まり、「直球も良いが頭の使える選手だ」として1位指名に踏み切られるきっかけとなった。また、高校時代は一度も柵越えの本塁打を打たれたことが無く、唯一打たれたのは平野光泰明星高等学校)にランニング本塁打を許したのみだった[5]

野球が終わって進路をどうするのか。ということになった。プロのスカウトもちらほら来ていたらしいが、自分には縁のない世界で村山実さん(阪神)や長嶋茂雄さん(巨人)がいる場所は美空ひばり石原裕次郎さんがいる芸能界と同じく、雲の上の話だと思っていた。自分のなかでは、チームの仲間とともに熱心に誘ってくれた東海大学に行こうと決めていた。
私の履歴書 江夏豊(日本経済新聞、2017年12月6日)

江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。2年生のある日、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合を行い、延長15回・0-0の引き分けに終わった。この試合で、江夏は四球を出しながらも完投して15奪三振を挙げる好投を見せる一方、3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振を記録した。4番打者として打席に立った江夏は、鈴木が投じる速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している[6]。この出来事がきっかけで江夏は、鈴木が投じていたカーブを習得したい願望が芽生えたという。

阪神入団~続く快挙達成編集

藤本・村山らとの出会い編集

1966年に行われた第1次ドラフト会議において、阪神タイガース読売ジャイアンツ東映フライヤーズ阪急ブレーブスから1位指名を受け、競合抽選の結果、阪神が指名権を獲得、入団が決まった。背番号は入団時のみ71を着用していたが、のちに球団から11328のどれかを着用することを薦められた江夏は、1を「ライバルの鈴木啓示と番号が被る」、13を「何となく縁起の悪い番号」という理由で候補から消し、消去法で28を選択した。このことは2014年12月30日放送の「背番号クロニクル」(NHK BS1)で語られている。ちなみに同番組内では、28が完全数であることが紹介されているが、江夏本人は「『完全数』って何なのか、それすら僕は知りませんでした」と語っている。

1967年の春季キャンプでは、高校時代まで投げられなかった変化球を習得するために権藤正利をはじめとする先輩投手陣に教えを請うたが、どの投げ方も完全に習得できないまま公式戦が始まってしまった。それでも剛速球を武器に225奪三振を挙げ、新人でありながらシーズン最多奪三振を記録した一方で与四球や被本塁打も多く、打撃力に乏しい当時のチーム事情[注 1]も重なって12勝13敗と負け数が上回り、新人王のタイトルも武上四郎に阻まれて獲得はならなかった。ただ、球団とは1勝10万円のインセンティブ契約を結んでいたため、年俸相当の収入を得たという[8]

新人時代の江夏は、当時監督だった藤本定義に非常にかわいがられていた。「鬼監督」として数々の名選手を育て上げた藤本だが、野球人として最晩年に差し掛かっていた当時は好々爺としており、江夏と一服しながら球界の昔話を聞かせるのを好んでいた。江夏は藤本を陰で「おじいちゃん」と呼んでいたが、藤本がオールスターゲームで江夏を3連投させた川上哲治を見るや、シーズン再開後の巨人戦で川上を阪神ベンチに呼び出し、「おい、哲!うちの豊(江夏)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」と普段とは全くの別人のような剣幕で叱り付けたことがあった。他球団でありながら江夏にとって厳しい大監督の川上が、直立不動の姿勢で好々爺の藤本に怒鳴られているのを目の当たりにした江夏は、鬼監督時代の藤本が突然蘇ったことに心底驚いたという。藤本と江夏の関係は藤本が退団した後も続き、江夏がのちに南海ホークスへトレードされた際には、藤本はショックを受けて号泣し、体調を崩してしまった。また、広島時代に江夏が自身初の優勝を決めた際には、既に高齢で歩行もままならなかったにも関わらず、広島のベンチ裏まで駆け付けて「本当によかったなぁ!おめでとう」と涙ながらに直接祝福していた。

1968年のキャンプでは、新たに投手コーチに就任した林義一によって、砲丸投げの影響からくる「担ぎ投げ」の癖を矯正され、変化球も徹底的に教え込まれた。これによって制球力の向上と球種を増やし、開幕から前年を上回るペースで勝利数と奪三振数を伸ばしていった。この年を境に江夏は、血行障害に悩む村山実に代わってエースとなり、球界を代表する投手へ成長した。このことから江夏は、温厚で真摯に指導してくれた林を「お師匠さん」と呼び慕っている。村山に対してもストイックな野球観に感銘を受けて弟子入りを決意し、練習からロッカールームに至るまで村山の至近距離で一挙手一投足を観察していたが、初年度に江夏が好成績を残すと、村山は露骨に江夏を遠ざけるようになった。江夏はエースの座を奪われそうになった村山の器量の狭さゆえの行動と憤慨していたが、のちに自身を一人前の投手として認めてくれたがゆえの「弟子を卒業」という意思表示と気付き、「あれが本物のプロ、勝負師の在り方だと教えてもらった」と自著の中で語っている。

こだわった王貞治との対戦編集

1968年9月17日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)で王貞治から三振を奪い、稲尾和久の日本記録を更新するシーズン354奪三振を記録した[9]。江夏は試合前にこの新記録に気付いており、記録更新となる354個目の三振を王から奪うと公言していたことが当時の新聞に記載されている。そして試合では日本タイ記録となる353個目を王から奪ったが、江夏本人はこれを日本記録更新と勘違いしており、ベンチに戻ってから捕手・辻恭彦から指摘されて初めて気付いたという[9]。そこで江夏は後続の打者を全て意図的に凡打で打ち取り、次の王の打席で宣言通り記録更新となる354個目の三振を奪ってみせるという離れ業をやってのけた[9]。江夏は後年、「(王以外の野手から三振を奪うより)さんと高橋さんから三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった。特に高橋さんを2ストライクまで追い込んだのが一番困った」と語っている。しかもこの試合では、延長12回に江夏自らがサヨナラ安打を放って勝利している[9]

この試合にも表れているように、江夏は王から三振を奪うことに特にこだわっていた。それは村山が節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似したもので、新人時代に村山が「お前の相手はアレ(王)、オレはこっち(長嶋)や」と江夏に言い、左対左になる王をライバルとするよう命じられたともされている[10]。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算57奪三振の一方で、直球で勝負を挑んだために20本もの本塁打を浴びている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を放った打者も王である。ただし、野村克也の著書「オレとO・N」によると、試合前日のスポーツ新聞に掲載された江夏のインタビューとして「日本記録はONから取りたい」、試合当日直前のインタビューでは江夏が「王、長嶋と連続して(三振を)取りたい」と語っていたといい、さらに「王は昔、『江夏のその話は眉唾』と言っていた」「(王の)次の打者の長嶋には、合わせたバッティングでショートゴロを打たれてしまっている」と述べている。このことから察するに、江夏本人が美化して話したことがマスコミで誇張されたまま何十年と経過し、本人も収拾がつかなくなってしまったので、ONは「江夏がそうしておきたいなら別に構わない」というスタンスだったこともあって、“長嶋から新記録を狙ったものの打たれてしまった。仕方ないので打順を一回りさせて王が来るまで、他の選手からは三振を取らないようにする”というのが真相だろうと述べている[11]

結局、同年は奪三振数を最終的に401個まで伸ばした[12]。これは2020年現在でも日本プロ野球記録であり、また世界記録として認定されていないものの、MLB記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回っている。また、江夏は奪三振数だけではなく奪三振率も極めて高く、通算18年間の実働期間で奪三振数が投球回数を上回ったことが9度もある。しかもそのうち4度は先発投手だった阪神時代に記録しており、佐々木主浩などの抑え投手では珍しくないが先発投手がこの記録を達成するのは稀である。江夏のライバルだった堀内恒夫は、ついに一度も達成できなかった。

オールスターゲーム9者連続奪三振編集

1971年7月17日オールスターゲーム第1戦(阪急西宮球場)で登板した江夏は、速球と抜群の制球力でパ・リーグの打者から次々に三振を奪い、史上初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームでの投手は規定により3イニングまでしか登板できないため、この記録は1試合における事実上の最多奪三振数であり[注 2]、現在でもオールスターゲームにおける単独記録である。打者がキャッチャーフライを打った際に捕手の田淵幸一が追いかけるも「捕るな!」と叫んで制したとされているが、実際には打球がそのまま観客席に入るために追わなくていいと江夏が思ったことに加えて、三振を奪っている最中だったこともあって江夏自身がテンポよく投球したかったために「追うな!」と叫んだものだと著書で語っている。

このあとセ・リーグは、江夏の後を受けて登板した渡辺秀武高橋一三水谷寿伸小谷正勝の継投でパ・リーグを無安打1四球1失策16奪三振に抑え、継投によるノーヒットノーランを達成している[13]

9連続奪三振を記録した際のボールは江夏の手元に無く、行方不明となっている。これは、捕手の田淵幸一が江夏の記録達成を知らず、球審の三振コールを聞くと同時に無意識に観客席へ投げ入れてしまったためとされており、当時の映像を見ても田淵が球審の三振コールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へ歩き出しながら後方の観客席へボールを投げ入れる様子が確認できる。ただ、後年になって江夏が番組で王理恵と共演した際に、「田淵というキャッチャーはボールを投げ入れてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスッと渡してくれたんだよ」と述べている。

江夏は前年のオールスターゲームにおいても5連続三振、翌日の第2戦は1三振を奪っており、連続15奪三振もオールスター記録となっている。さらにこの試合で江夏は、1960年巽一に次ぐ史上2人目の「オールスターゲームにおける投手の本塁打」を放っており、これを最後にオールスターゲームにおける投手の本塁打は記録されていない。

史上初の延長ノーヒットノーラン編集

1973年8月30日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)では、史上59回目となるノーヒットノーランを達成した。この試合では史上初の延長戦ノーヒットノーランとなっている。

相手先発の松本幸行と延長戦まで投げ合い、11回裏に松本が投じた初球をライト側ラッキーゾーンに運び、「自らサヨナラ本塁打を放つ」という劇的な形で史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成した。2020年現在においても日本プロ野球で延長戦ノーヒットノーランを達成しているのは江夏だけである[14]。しかしその後、江夏が「野球は一人でも出来る」と発言して物議を醸したが、自身はこれについて一切否定しなかったため、非難に拍車をかける形となった。また、この試合を実況した朝日放送アナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ!江夏バンザーイ!」と万歳を連呼して公平性を欠いたとして厳重注意を受けるという後日談もあったが、これも実際には江夏が三塁を回る際にコーチの山田伝が先に大きく両手を挙げた状態で江夏にハイタッチを求め、江夏が応じ、続けて金田正泰監督とハイタッチを交わしながら生還する様子を忠実に実況していただけであった。

このようにシーズン中には華々しい記録を樹立し続けた江夏だが、シーズン全体で見ても最多勝利(1968・73年)、最優秀防御率(1969年)、最優秀投手沢村栄治賞(共に1968年)のタイトルを獲得、シーズン20勝以上が4度、6年連続リーグ最多奪三振を達成し、僅か4年目の1970年には通算奪三振数記録保持者である金田正一を上回る史上最短で、通算1000奪三振を記録するなど、名実ともにセントラル・リーグを代表する投手となった。

しかし、当時は読売ジャイアンツが前人未到の9連覇(いわゆるV9)を成し遂げている真っ只中で、チームは優勝争いに加わるものの、優勝を経験することは出来なかった。中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば阪神のリーグ優勝が決まる試合(10月20日、対中日ドラゴンズ最終戦)に先発するも5回3失点で敗戦投手となり、「優勝を逸した元凶」とまで言われてしまった。また、この試合では直前になって長田陸夫球団代表・鈴木一男常務から「優勝すると金が掛かるから残り2試合は勝ってくれるな。監督も了承しているから」と言われたなどと、著書で語っている。その一方で起用については「試合で負けるためにエースを投げさせる訳も無く、あとで『中日戦は上田で巨人戦は江夏で行けば良かった』という声もあったけどそれは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら勝ち星の多い方から行くのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということ」と采配に理解を示している[15]

周囲との確執~阪神放出編集

1973年シーズン終了後、江夏は金田監督に対する不満から「監督の下ではプレーできない」と表明し、金田も「江夏を抱えてチーム作りをする自信が無い」として辞任を表明する事態となった。この際は戸沢一隆球団社長が仲裁に入り、最終的には両者とも残留を表明したが、確執の解消には至らなかった。1974年に金田に代わって就任した吉田義男とは吉田の現役時代から性格が合わず、親しかった辻佳紀コーチが間に入ることでようやくコミュニケーションが取れる状態だったという。また、新人時代に感銘を受けた村山が監督に就任した際にも確執が生じていたことから「一匹狼」といった異名を付けられ、関西地方のスポーツ紙などに江夏と球団・首脳陣側の対立が面白おかしく報じられることも多くなった。

1970年に発生した黒い霧事件では江夏も「野球賭博の常習者との交流をしていた」として処分を受け、多くのチームメイトから「江夏がいては阪神は優勝できない」「江夏とプレーしたくない」と言われるほど孤立してしまったため、球団側もパ・リーグ球団を相手とする早期のトレードを模索していた[16]

江夏自身も1974年から血行障害、心臓疾患(心室性期外収縮)が悪化して肩や肘に痛みが発生、服用していた痛み止めなどの影響で体重が増え、同世代のライバルだった堀内恒夫読売ジャイアンツ)より先に通算150勝を達成するも、成績は年々下降していった。

そして1976年1月28日、関係者によって兵庫県内の球団事務所に呼び出された江夏は、江本孟紀島野育夫長谷川勉池内豊との交換トレードで望月充と共に南海ホークスへの移籍を宣告された[17]。吉田から野村克也選手兼任監督へ打診があった事によるトレードで、両球団は乗り気だったものの、野村自身からすれば痛かったという。フロント主導で一方的に決められたトレードで、会見で江夏は涙ながらに無念を語っていた[18]。このトレードの際に江夏は交換相手の江本に関して「なぜあんなレベルの選手と…(オレが交換させられるのか)」とぼやき、それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。しかし後に二人は和解して良い友人となり、のちに江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になっている。

南海移籍~野村の野球観編集

江夏は当初、南海への移籍を頑なに拒否していたが、野村克也と会った時にその野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。感銘を受けたきっかけは、江夏が阪神時代の1975年10月1日の対広島東洋カープ戦を野村が観戦しており、満塁の場面で衣笠祥雄をフルカウントから意図的にボール球を投げて空振り三振を奪ったことを看破、それを直接指摘したことだったという[19]。野村はさらに、「お前(江夏)が投げてオレが受ける。これは芸術になるぞ」と告げ、それが移籍の決め手になったという[20]。江夏が野村を慕うきっかけは、江夏自身は前述の移籍交渉における広島戦での指摘だったというが、野村はこの出来事についてはあくまでも南海への移籍を決意した要因に過ぎないとしている。野村によると、江夏が自身を慕うようになったのは、江夏の意図的とも思える制球ミスで敗れた試合の後に黒い霧事件を引き合いに出して「疑惑を持たれた人間が、『自分は潔白だ』と口で何度言っても誰も信じない。マウンドでの態度で示せ」と厳しく叱責したところ、「阪神時代にはそんな言いにくいことを言ってくれる人はいなかった」と感激したことだったという。江夏は現在に至るまで、「野球に関しての見識は間違いなく球界一」と野村を評し、野村も生前は江夏を「自分が接した投手では一番の頭脳を持ったヤツ。史上最高の速球投手」と高く評価していた。

移籍初年度は阪神時代から引き続き先発投手として起用されたが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、試合中に発作が起きて動けなくなるなど思うような成績が残せず、野村がハラハラすることもよくあったという。しかし抜群の制球力は健在で、50球程度の短いイニングなら戦力になると考えた野村は、江夏へリリーフへの転向を打診した。しかし、当時はリリーフの地位は先発投手より低かったため、当初は「トレードの上に今度はリリーフと、なぜ自分ばかりに恥をかかせるのか」と反発し続けたが、「野球界に革命を起こそう」という野村の説得により、1977年6月にリリーフ投手へと転向を決意した。当時の日本にはリリーフ専門投手の調整法が確立されておらず、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたが、現在では全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持方法として定着している。

野村による江夏のリリーフ転向は成功し、江夏は19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとして、野村は選手の復活を幾度となくサポートしたことから「野村再生工場」と呼ばれるようになり、選手の再活躍の手法の最初期の事例として後世まで評価されることとなった。江夏は後に、「ムース(野村)の『革命』という言葉が心に響いた。革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」と語っている。この南海時代以降、阪神時代の豪腕は鳴りを潜めたが、打者との綿密な駆け引きと変化球を巧みに使い分ける技術を身に付け、相手打者の探りを入れるために初球をボールにすることも厭わなかった[21]

なお、江夏は阪神時代に吉田から抑え投手への転向を打診されたことがある。長いイニングで球威が落ちるようになったのを見た吉田がそれとなく打診したが、当時の江夏にはその気が全く無かったと語っている[22]。南海移籍後に野村からリリーフ転向を打診されて受け入れ、最優秀救援投手に輝くなど実績を残した江夏は野村に傾倒していき、自宅が近所同士だったこともあって家族ぐるみの付き合いをしていたという。江夏が夜遊びなどで帰宅が遅くなった際は、野村がまだ幼かった江夏の娘を自宅の風呂に入れたりすることもあったという。

広島移籍~江夏の21球編集

1977年オフ、野村が公私混同問題で解任された際に「野村さんが辞める以上、南海を出して下さい」と発言、同年12月22日に金銭トレードで広島東洋カープへ移籍した。

広島でもリリーフとして起用されるが、江夏の投球術は衰えるどころかますます冴え渡り、打者心理を読み込んだうえで球速だけでなく投球モーションに変化を加えて緩急を付けることで[注 3]、打者を大きく翻弄していった。これによって1979年から1980年の2年連続日本一に大きく貢献、「赤ヘル黄金時代」を築く大きな原動力となった。特に1979年には自身初、日本のリリーフ投手としても史上初となるMVPに輝いている。

その投球の最大の面目躍如となったのが1979年の日本シリーズ第7戦、対近鉄バファローズ戦(大阪スタヂアム)である。1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなど近鉄の反撃を鮮やかに絶ち、広島を日本一に導いた。当時の様子は、のちの作家・山際淳司が「江夏の21球」という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として語られている。

1980年7月22日のオールスターゲーム第3戦(後楽園球場)では、セ・リーグが2-0と勝っていたが9回裏に1点差まで詰め寄られ、無死満塁のピンチを背負った野村収大洋ホエールズ)を救援し、レオン・リー有藤通世(共にロッテオリオンズ)、山内新一南海ホークス[注 4]を3者連続三振に打ち取り、先制打を放った真弓明信、本塁打を放った掛布雅之を抑えてMVPを獲得した。「『9者連続三振』『江夏の21球』の再現」などと話題になったが、江夏は後年、この試合の前日に「あるお偉いさんと徹夜で漢字の勉強をしていた」と語っている。

南海時代に野村に感銘を受けたきっかけとなった広島戦の試合で三振を奪った衣笠とは、江夏が広島に在籍していた頃から無二の親友となり、現役引退後も衣笠が亡くなるまで交流が続いた。江夏の著書によると、「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」と言い、衣笠の没後は「いいヤツを友人に持った。オレの宝物だ。自分もすぐ追いかけて、あの世で野球談議をするよ」とその死を悼んだ[23]。また、この時期は大野豊にフォーム改造などの熱心な個人指導も行い、のちの大野の成長の礎を作り上げた。フロントも選手の扱いが非常に厚いもので感動したと語り、「最も愛着があるのは最初にユニフォームを着た阪神だが、最も楽しかった時代は広島」とさえ述べている。

なお、広島在籍時代に対戦した古巣・阪神タイガース戦では一度も勝利投手になれず、現役通算での全球団勝利を逃している。

日本ハム時代~再びパ・リーグへ編集

1980年日本ハムファイターズは、パ・リーグ後期シーズンで優勝争いを演じていた。自らのチーム強化に手応えを感じていた大沢啓二監督は、リリーフエースを求めて広島へ江夏獲得を自ら打診、同年オフの12月1日にエース・高橋直樹との交換トレードで、江夏の日本ハムファイターズ移籍が決定した。大沢の親分肌は江夏の気性に合っていたようで、大沢も「江夏を最後(9回)に使うのが我がチームの勝ちパターン」として江夏を信頼、江夏もそれに応えるように1981年はリリーフエースとして優勝に貢献し、MVPに輝いた。両リーグでの受賞は史上初の快挙で、広島時代の1979年から1983年まで5年連続、両リーグに跨っての最多セーブ投手のタイトルを獲得し、同時に史上初となる全12球団セーブの記録も達成した。

1982年には通算200勝を達成し、入会条件を満たして日本プロ野球名球会に入会する。チームは後期優勝を果たし、前期優勝した広岡達朗監督率いる西武ライオンズとプレーオフで対決する。事前予想では西武打線がシーズン通じて江夏に抑えられていたことから日本ハムが優勢と見られていたが、広岡は江夏が投球した後の守備に大きな難があることを見抜いており、江夏の周辺に執拗なプッシュバントを仕掛けさせた。これによって投球リズムを崩した江夏は西武打線に捕まり、日本ハムは西武に敗れて日本シリーズ出場は果たせなかった。これによって、江夏は広岡の戦略眼の鋭さに尊敬の念を抱くようになる。

前年日本一の広島から移籍したこともあって、当時の日本ハムのチーム力はお粗末なものだったという。当時チームメイトだった大宮龍男岡部憲章間柴茂有坂巻明などは大沢から頼まれて江夏が指導したと言われており、江夏自身も当時を振り返って「彼らと一緒に野球をやって自分自身も勉強になった」と後述している。

西武時代~江夏の現役晩年編集

1983年オフに大沢が勇退し、後任に植村義信が就任した。しかし植村は江夏をチーム構想から外しており、江夏の退団が決定した。大沢からも「オレは監督を辞めようと思っている。お前(江夏)も他所のチームでやり直した方がいい」と退団を持ち掛けたとされている[24][25]。移籍にあたって江夏は、現場を離れるも常務取締役として球団本部に残る大沢から希望球団を問われ、「広島とか阪神とか、巨人を倒すチームなら行ってもいい。しかし西武は嫌である」と答えていた[注 5]。しかし、同年12月13日柴田保光木村広との交換トレードで西武ライオンズへの移籍が決定した。これは、坂井保之球団代表による「巨人が江夏獲得に乗り出してくるとみて、巨人に取られる前に自分のところへ引き入れる」という意図によるものだったと語っている[28]。また大沢も、江夏に移籍を薦めた際には既に西武から申し入れがあり、厳しい広岡野球を知る方が江夏のためになると考えたと述べていた[注 6]

1984年の開幕から江夏は調子が上がらず、シーズン途中で体調不良を訴えた。広岡は、江夏の体調報告が再三にわたって大きく食い違うことに不信感を抱き、二軍落ちと入院を命じた。その一方で江夏も、二軍落ちの決定を広岡本人からではなく新聞報道で知るなど、広岡が選手とコミュニケーションを取らないことに不満を募らせていた[30]。チームも同年は優勝争いから早々と脱落し、シーズン途中で早くも来季を見据えた若手中心の起用に代わったことで、7月12日の登板を最後に江夏に出番が与えられることは無かった。江夏は、史上初の200セーブと通算3000奪三振を目前にしながら、同年限りで西武を退団、現役引退を表明した。阪神時代にバッテリーを組み、西武で再び同僚となった田淵と異なり、球団主催の引退試合は行われなかった[31]

引退試合が行われなかったことに対して、かつて創刊時のCMに江夏を起用していた雑誌・Numberの初代編集長で、当時は文藝春秋の編集長だった岡崎満義らの計らいで、多摩市一本杉公園野球場にてNumberを発行する文藝春秋社の主催、名球会協力の下、「たったひとりの引退式」が実施され、1万6000人の観衆が詰めかけた。江夏は阪神時代のユニフォームを着用し、球団の垣根を超えて集まった選手・OBを相手に日本での最後の投球を披露した。また、監督役としてビートたけしも駆けつけた[32][33]。この引退式の挨拶でメジャーリーグ挑戦の意志を表明し、「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、『ご苦労。』それだけ言ってやってください」と語っている。

江夏の西武退団の直接的な原因は、広岡の確執だった。自著によると、江夏は事前に野村に言われていたことでヘッドコーチ格の森昌彦バッテリーコーチの言うことはよく聞いたが(野村と森はチームを超えて長年の親友である)、広岡とは全くそりが合わなかった。衝突の決定的な原因は、1984年のキャンプのある日に経営陣も参加した朝食会の席で、健康のための栄養学に重きを置いて玄米や豆乳などを選手に普段から強制する広岡や、他のコーチ・選手がいる中で「ねぇ監督、こんなもの食べてなんで痛風なの?」と問いかけて広岡の怒りを買ってしまい[注 7]、それ以降は出場機会が減らされたとされている。江夏が二軍落ちとなったのはプロ18年目で初のことだった[34]

広岡監督は玄米や自然食を勧めるなど食事から管理していたものの、自身は痛風の持病があった。ある食事会で「監督はこういうものを食べているのになんで痛風なの」と聞いてしまった。自身も痛風持ちだったので、何気なく尋ねたのだが、監督は気分を害し、席を立ってしまった。
私の履歴書 江夏豊(日本経済新聞、2017年12月29日)

なお、江夏は前述の事情から広岡について「人間的に許せないところがあった」と語っているが、一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観は高く評価しており、「人間として問題があっても、野球という面では教えられることが多かったし、素晴らしい指導者」と、監督としての広岡を高く評価している[35]。広岡も「江夏は投げることに関しては素晴らしかったし、何と言っても抜群に頭がいい」と評価している[36]。その広岡自身も、巨人での現役時代は10年以上も先輩にあたる川上哲治がスランプを脱しようと素振りしているのを見て、「川(上)さんもだいぶ苦労しとるね」と軽口を叩いて川上の怒りを買ったことがある。川上との確執は他のトラブルも加わって悪化し、広岡も川上から干されてしまい、少なくとも広岡が西武の監督に就任するまで続いていた。

メジャー挑戦編集

日本での現役引退を表明していた江夏は、1985年ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに招待選手として参加する。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えて36歳でメジャーに挑戦するルーキー」として地元マスコミからも注目された。江夏はノン・ロースター・プレイヤー[37]としての扱いで、背番号68が与えられた[38]。なお、最終的にロースター入りには至らなかった為、公式の背番号記録には江夏の着用した68番は記載されていない[39]

日本での年俸8000万円から週給175ドル、宿舎はモーテルと日本に比べて雲泥の差だったが、キャンプでは順調に結果を出し、オープン戦でも好調を維持して開幕ロースター入りの最終選考まで残るも終盤になって調子を落としてしまい、開幕メジャー入りはならなかった。球団からはマイナー(2A)契約を打診されたが、36歳という高齢がネックとなり、ジョージ・ハンバーガー監督は「エナツは素晴らしいピッチャーだが、ここに来るのがあと10年早ければ…」と述べ、江夏も帰国、現役を完全に引退した。江夏は、『豪球列伝』(文藝春秋文春文庫ビジュアル版)にて、「大リーグ入りが目的ならば絶対に残っていた。マイナーからスタートすることや翌年再挑戦も選択肢にあった」としたうえで、「オレは不完全燃焼を起こして燻り続けている『投手魂』の『死に場所』が欲しかった。オレは広岡という男に『死に場所』(西武)を取られた。もう一度納得出来る場所で投げてみたかった。大リーグのキャンプに参加して納得できた」とコメントしている。一方で、ブルワーズのスカウト部長だったレイ・ポイテビントは「リリーフの左腕投手のボブ・マッカラーとエナツを比べてみると、エナツの方が少し良かった。だが、チーム事情でエナツに一旦マイナー行きを宣告することとなり、彼には電話で『チャンスはある。しばらくマイナーにいてくれ』と伝えた。エナツはマイナー行きを受け入れてくれると思ったが、記者会見を開いて日本に帰ってしまった。その半月後にマッカラーは骨折した。エナツがもし残っていたら、大リーガーになれた」と証言している(藤澤文洋『やっぱり凄い メジャーリーグ大雑学』、講談社+α文庫、pp.112-113)。

江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・ヒゲーラは、この年に投手として15勝、翌年は20勝を挙げる活躍を見せて一躍メジャーを代表する投手に登り詰めた。後にヒゲーラが日米野球で来日した際、江夏とプレーしていた当時はビールを買う金すら持ち合わせていなかったヒゲーラが一流ブランド品を身に纏い、まるで別人のような生活の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いていたが、ヒゲーラは江夏を見ると、真っ先に握手を求めてきたという。

現役引退後編集

1985年からは日本テレビラジオ日本野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家として活動する傍ら、映画・テレビドラマ・バラエティ番組に出演するなど、タレント俳優としても活動していた。

不祥事編集

1993年3月2日、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の現行犯で逮捕される[40]。逮捕数日前まで日本ハムファイターズの臨時投手コーチを務めており、世間に衝撃が走った。

起訴された犯罪事実は、覚醒剤水溶液約0.25mlを左腕に注射した覚醒剤の使用[41]と、覚醒剤合計52.117gおよび覚醒剤水溶液約0.5mlの所持である[41]。裁判は同年行われ、情状証人として野村克也江本孟紀が出廷した[42][43]。判決では、「大量の覚醒剤(約100g)を入手し、本件で検挙されるまで数年にわたって使用し続け、昨年9月頃からは同居していた女性にも勧めて一緒に使用させた」ことが示された。そして「覚醒剤の所持量は約52gと、自己使用の物としては稀に見るほどの大量[41]」「同居女性は覚醒剤使用の罪で有罪判決を受けており、そのきっかけを作った[41]」と指摘され、「刑の執行猶予を相当とする事案とは到底認められない」として懲役2年4ヶ月の実刑判決を言い渡された[41]。江夏はそのまま静岡刑務所に収監され[40]1995年4月に仮釈放された[40]

仮釈放されてから1ヶ月後の6月には文化放送のラジオに出演し、野球の論評を行っている。1996年から2010年まではデイリースポーツ野球評論家を務めたほか、テレビ大阪野球解説者も務めており[44]、わかりやすく明晰な技術論で高い評価を得ている。選手を君付けで呼ぶ野球解説者のはしりで、これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。また、週刊プレイボーイ集英社)で『江夏豊のアウトロー野球論』を連載中。2007年まで週刊ベースボールベースボール・マガジン社)で『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』も連載していた。それ以外にも多くの野球関連書籍を執筆するなど、精力的に野球に携わっている[43]

マスターズリーグの東京ドリームスやモルツ球団に所属しているほか、阪神タイガースにおいては2015年には一軍春季キャンプ、2016年には二軍春季キャンプでそれぞれ臨時コーチを務めた。

エピソード編集

人物編集

司馬遼太郎作品を愛読しており、なかでも「燃えよ剣」をお気に入りとして挙げている。その理由は、刀一本で戦う新撰組と左手一本で戦う自分、さらには主役・土方歳三の最期の地である函館と、自身が現役時代にメジャーリーグへ挑戦した地であるアリゾナ州が妙に重なって思えたことと、登場人物である一人の女性が非常に魅力的に思えたことだという[45]。 現在は飲しない。体質的に受け付けないわけでは無いが、阪神時代に主治医から「いまの無茶な生活を続ければ間違いなく数年以内に命を落とす。酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」と言われて酒を選び、そのまま現在に至っている。ただしタバコだけはどうしても止められないと、ニュースステーション内のコーナー「最後の晩餐」で語っている。

1980年には歌手として「俺の詩」というレコードをリリースし、7万枚を売り上げた。

野球編集

指先による高度な投球技術編集

1960年代から1980年代前半にかけて、先発・リリーフ両方で最も高い評価を受けた左腕投手である。阪神時代は先発として奪三振記録など輝かしい成績を残した一方、野村克也の打診でリリーフに転向した南海時代からは高い制球力で新たな輝きを放った。リリーフとしては、当時は記録採用前だったが1967年から1973年にかけて合計37セーブを挙げている。

現役時代末期の西武ライオンズで捕手として江夏の投球を受けた伊東勤は、江夏の高い制球力と、投球の瞬間に指先の操作だけで瞬時にコースを変え、捕手が捕球しやすいところへ投球する並外れた技術、さらには三塁走者の動きを見ず、サイン交換をしていないにも関わらずスクイズを見抜く的確な判断力に驚嘆したと語っている[46]。このことから江夏は、現在も「20世紀最高の投手の一人」との呼び声が高く、広島・日本ハム時代に大車輪の活躍で優勝に貢献したことから「優勝請負人」の異名も取った。Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門では、沢村栄治・金田正一・稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。

打者との対戦と江夏の打撃編集

ねじめ正一の著書「落合博満 変人の研究」の対談の中で、江夏は、「一番攻めにくい打者は、ある球種をひたすら待つ者」と語っており、その典型で落合の名を挙げている。現役時代のある日、江夏が落合と麻雀を楽しんでいたところ、江夏は「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ。お前(落合)みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生、オレからは打てない」と落合に説いた。その後、1982年の対ロッテオリオンズ戦で落合と対戦し、結果は三振だったものの、この打席で落合はカーブ以外の球種には見向きもしなかったことに江夏が気付き、「落合の成長を見て、非常に感慨深いものがあった」と語っている。そのカーブは、新人時代のある日、対読売ジャイアンツ戦で王貞治から「豊(江夏)のカーブはわかっていても打てない。曲がらないから」と言われたという[47]

球種に迷った時に結論として投げるのは、「アウトコースの真っ直ぐ」だと発言したことがある[48]

江夏は打者として、ノーヒットノーラン達成試合・オールスター9者連続三振の達成試合でどちらも本塁打を打っており、ノーヒットノーラン達成は自身のサヨナラ本塁打で達成している。公式戦での通算は852打数128安打で打率.150、7本塁打の記録を残している。

親交と背番号編集

江夏が高校時代の練習試合で初めて対戦して以来、鈴木啓示と親交が深い。その一方で、鈴木と確執があった野茂英雄からは師匠として慕われていた。かつて近鉄バファローズにおいて監督を務めていた鈴木とエースだった野茂の衝突が取り沙汰されていた頃、江夏は「トレーニングに関する野茂の主張もわかるが、自らの経験から考えると鈴木の言うことも全て間違っているわけではなく、この件だけは野茂と同調は出来ない」と自著で語っている。

無類の阪神ファンである作家・小川洋子の「博士の愛した数式」(第1回本屋大賞受賞)では、阪神時代の背番号28完全数)の持つ意味を題材に、著者から熱烈なオマージュを捧げられている。江夏本人も、この作品が映画化された際にコメントを寄せている。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1967 阪神 42 29 8 2 0 12 13 -- -- .480 923 230.1 167 27 88 1 3 225 3 1 81 70 2.74 1.11
1968 49 37 26 8 3 25 12 -- -- .676 1259 329.0 200 29 97 2 4 401 2 0 83 78 2.13 0.90
1969 44 23 17 7 3 15 10 -- -- .600 1000 258.1 172 17 78 1 3 262 3 0 56 52 1.81 0.97
1970 52 37 25 8 3 21 17 -- -- .553 1295 337.2 232 29 73 5 3 340 5 1 87 80 2.13 0.90
1971 45 30 16 6 4 15 14 -- -- .517 1006 263.2 182 25 66 3 2 267 5 2 77 70 2.39 0.94
1972 49 31 16 3 3 23 8 -- -- .742 1059 269.2 195 30 60 3 4 233 0 1 86 76 2.53 0.95
1973 53 39 18 7 2 24 13 -- -- .649 1228 307.0 258 23 82 6 4 215 4 0 95 88 2.58 1.11
1974 41 23 12 2 1 12 14 8 -- .462 772 197.2 153 24 50 3 2 149 3 0 65 60 2.73 1.03
1975 49 27 9 1 1 12 12 6 -- .500 852 208.1 169 24 72 7 2 132 2 0 92 71 3.07 1.16
1976 南海 36 20 6 1 1 6 12 9 -- .333 612 148.1 115 12 61 0 4 109 4 0 58 49 2.98 1.19
1977 41 3 1 0 0 4 2 19 -- .667 346 84.0 72 5 21 0 5 60 2 0 28 26 2.79 1.11
1978 広島 49 0 0 0 0 5 4 12 -- .556 395 95.1 77 7 38 3 2 99 1 1 32 32 3.03 1.21
1979 55 0 0 0 0 9 5 22 -- .643 420 104.2 77 10 36 2 1 117 3 0 31 31 2.66 1.08
1980 53 0 0 0 0 9 6 21 -- .600 334 86.0 61 12 20 4 1 86 1 0 27 25 2.62 0.94
1981 日本ハム 45 0 0 0 0 3 6 25 -- .333 339 83.0 69 10 24 0 1 75 1 0 30 26 2.82 1.12
1982 55 0 0 0 0 8 4 29 -- .667 354 91.0 56 8 31 1 2 107 0 0 22 20 1.98 0.96
1983 51 0 0 0 0 2 4 34 -- .333 318 77.1 63 6 27 1 3 82 2 0 24 20 2.33 1.16
1984 西武 20 0 0 0 0 1 2 8 -- .333 106 24.2 22 1 12 1 0 28 2 0 11 10 3.65 1.38
通算:18年 829 299 154 45 21 206 158 193 -- .566 12618 3196.0 2340 299 936 43 46 2987 43 6 985 884 2.49 1.03
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
  • 初登板:1967年4月13日、対大洋ホエールズ2回戦(川崎球場)、2回裏に2番手で救援登板、4回無失点
  • 初奪三振:同上、2回裏に伊藤勲から
  • 初先発:1967年4月19日、対大洋ホエールズ3回戦(阪神甲子園球場)、2回4失点(自責点3)で敗戦投手
  • 初勝利・初完投勝利:1967年4月29日、対広島カープ1回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1967年5月28日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場)
  • 初セーブ:1974年4月10日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点
節目の記録
  • 1000奪三振:1970年7月2日、対大洋ホエールズ12回戦(川崎球場)、7回裏に重松省三から ※史上38人目
  • 1500奪三振:1972年4月12日、対読売ジャイアンツ1回戦(阪神甲子園球場)、2回表に堀内恒夫から ※史上18人目
  • 100勝:1972年6月21日、対広島東洋カープ12回戦(阪神甲子園球場)、9回3失点完投勝利 ※史上58人目
  • 2000奪三振:1974年6月13日、対広島東洋カープ11回戦(阪神甲子園球場)、7回表に深沢修一から ※史上8人目
  • 150勝:1975年 4月20日、対読売ジャイアンツ3回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上27人目
  • 500試合登板:1977年9月25日、対日本ハムファイターズ後期12回戦(後楽園球場)、9回裏1死に2番手で救援登板・完了、2/3回無失点
  • 2500奪三振:1979年5月11日、対読売ジャイアンツ5回戦(広島市民球場)、5回表に王貞治から ※史上7人目
  • 600試合登板:1979年9月19日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を1失点 ※史上18人目
  • 100セーブ:1981年5月6日、対阪急ブレーブス前期3回戦(後楽園球場)、8回表1死に2番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点 ※史上初
  • 700試合登板:1981年9月12日、対阪急ブレーブス後期10回戦(阪急西宮球場)、10回裏1死に2番手で救援登板・完了、加藤英司に左前サヨナラ適時打を浴びサヨナラ負け ※史上9人目
  • 200勝:1982年7月2日、対近鉄バファローズ後期1回戦(後楽園球場)、7回表2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点 ※史上18人目
  • 800試合登板:1983年8月30日、対西武ライオンズ18回戦(西武ライオンズ球場)、7回裏2死に4番手で救援登板・完了、2回1/3を3失点でセーブ投手 ※史上5人目
その他の記録
  • ノーヒットノーラン:1973年8月30日、対中日ドラゴンズ20回戦(阪神甲子園球場) ※史上48人目(延長戦での達成は史上唯一)
  • シーズン401奪三振:1968年 ※世界記録(但し、MLB以外の記録は世界記録と認定されない)
  • 1試合16奪三振:1968年8月8日、対中日ドラゴンズ17回戦(中日スタヂアム) ※セ・リーグ記録
  • 23イニング連続奪三振:1968年8月8日 - 8月21日
  • 41イニング連続無失点:1969年4月12日 - 5月15日
  • 1試合での34打者連続凡退:1970年9月26日、対中日ドラゴンズ22回戦(阪神甲子園球場)
  • 100勝100セーブ ※史上初(後に山本和行斉藤明夫大野豊郭源治佐々岡真司が達成、先発100勝100セーブは江夏と佐々岡の2人のみ)
  • 全球団からセーブ:1984年5月3日、対日本ハムファイターズ6回戦(西武ライオンズ球場)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点 ※史上初、交流戦導入前の達成者は江夏のみ。
  • 全球団から敗戦 ※史上初[50](「達成」者は江夏と杉内俊哉=13球団敗戦のみ)[注 8]
  • オールスターゲーム出場:16回 (1967年 - 1976年、1978年 - 1983年)
  • オールスターゲーム15連続奪三振(1970年 - 1971年) ※オールスター記録

背番号編集

  • 71 (1967年入団当初)
  • 28 (1967年 - 1975年)
  • 17 (1976年 - 1977年)
  • 26 (1978年 - 1983年)
  • 18 (1984年)

関連情報編集

著書編集

連載編集

  • 『江夏豊のアウトロー野球論』(週刊プレイボーイ、集英社)
  • 『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』(週刊ベースボール、ベースボールマガジン社)

出演番組編集

出演作品編集

映画
テレビ

漫画・アニメ編集

レコード編集

EP
  • 江夏豊『俺の詞』 B面「女心譜」(Victor SV-6687) 歌:江夏豊
  • 東為五郎『さすらい星』(ミノルフォン) 作詞:江夏豊

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 江夏は後年、「巨人でもチーム打率が.250に満たなかったのだから、阪神なんて.210~.220くらいだった」と述懐している[7]。なお、1967年の実際のチーム打率は巨人が.265、阪神は.245である。
  2. ^ オールスターゲームでは、投手がイニング途中から登板した場合、次のイニングから数えて3イニングまで登板可能である。また振り逃げの場合は1イニング4奪三振以上も可能のため、極めて特殊なケースではあるがルール上では1試合10奪三振以上も不可能ではない。
  3. ^ 具体的には、速球を投げるモーションで遅い球を投げ、遅い球を投げるモーションで速球を投げて打者の目を狂わせ、対応させにくくする。
  4. ^ パ・リーグの野手が全員出場していたため、パ・リーグ監督の西本幸雄が打撃の良い山内を松沼博久西武ライオンズ)の代打に起用していた。
  5. ^ 江夏自身は、当時の日本ハムと同じ東京に本拠地を置くヤクルトスワローズあたりが移籍先ではないかと思っていたという。また、セ・リーグならヤクルト、パ・リーグなら近鉄を希望していた[26][27]
  6. ^ 大沢と江夏との対談では、のちに江夏が西武の在籍が1年で終わったこともあって、大沢が「結局、江夏の野球人生をオレが縮めたことになっちまったな」とも語っている[29]
  7. ^ 当時の広岡は自身の肉食を制限しておらず、スパイクが履けないほどの痛風に悩まされていた。
  8. ^ 11球団から勝利しているが、阪神タイガースからは未勝利に終わったため、全球団勝利は達成出来なかった。

出典編集

  1. ^ a b c 江夏豊の母 息子に貫いた不器用な愛 グレートマザー物語 2001年7月1日(2004年4月15日時点のアーカイブ)、テレビ朝日/テレビマンユニオン/テレビ朝日映像『グレートマザー物語』講談社、2002年、p41-56
  2. ^ a b c 江夏豊「新・家の履歴書 江夏豊」『週刊文春』2009年12月31日、2010年1月7日号、p102-105 但し、霧島酒造創業者との関係については、記事の信頼性に疑問あり。ノート:霧島酒造参照。
  3. ^ 江夏豊(2)左利き 長兄にたたき込まれる 社会人の草野球で助っ人に『日本経済新聞』2017年12月2日号「私の履歴書」 江夏豊
  4. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』(岡田彰布との共著)角川ONEテーマ21 (角川書店、2009年)p109
  5. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p148
  6. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p71
  7. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p130。
  8. ^ 「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『Sports Graphic Number』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、50頁。
  9. ^ a b c d 【9月17日】1968年(昭43) 新記録は王さんから 江夏が狙った日本新奪三振記録”. スポーツニッポン (2007年9月17日). 2012年8月26日閲覧。[リンク切れ]
  10. ^ 2012年8月17日朝日新聞夕刊1面コラム「ニッポン人・脈・記」
  11. ^ オレとO・N
  12. ^ . 阪神タイガース 公式サイト. http://s.hanshintigers.jp/80th/history/+2020年4月8日閲覧。 
  13. ^ 1971年度オールスター・ゲーム 試合結果(第1戦)NPB公式サイト
  14. ^ 【8月30日】1973年(昭48) 自ら抑えて打って史上初の記録!江夏の晩夏の快投”. スポーツニッポン (2007年8月30日). 2012年8月3日閲覧。[リンク切れ]
  15. ^ 優勝の決まる試合で「勝ってくれるな」と代表 疑惑の試合の「噂の真相」
  16. ^ 決断するだけで話は出来上がっていた?江夏豊放出
  17. ^ 【1月19日】1976年(昭51) 決断するだけで話は出来上がっていた?江夏豊放出
  18. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p90-92
  19. ^ 野村克也. 私とプロ野球. KKベストセラーズ. ISBN 9784584132951 p.p.166〜174
  20. ^ 野村克也. プロ野球怪物伝:大谷翔平、田中将大から王・長嶋ら昭和の名選手まで. 幻冬舎. ISBN 9784344035133 p.p.151
  21. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』p154
  22. ^ 吉田義男『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、P159
  23. ^ “江夏豊「オレの宝だ。すぐに追い掛ける」衣笠氏悼む”. 日刊スポーツ. (2018年4月24日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804240000455.html 2018年4月25日閲覧。 
  24. ^ 『左腕の誇り 江夏豊自伝』P254。
  25. ^ 大沢啓二『球道無頼』(集英社、1996年)P187
  26. ^ 『左腕の誇り』p254 - p255。
  27. ^ 1984年の江夏豊「西武への望まないトレード」の表と裏
  28. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号134ページ巻末コラム「期間延長、トレードの効能」
  29. ^ 『球道無頼』P187、P200。
  30. ^ 【一番近くで見た 西武ライオンズ40年】「打倒日本ハム」で宿敵から移籍の江夏豊氏 空港で投手コーチと押し問答「何でメンバーに入ってないの?」
  31. ^ 【9月10日】1984年(昭59) 「もう疲れた」江夏豊“最後の登板”は1安打投球も寂しく…
  32. ^ “江夏豊「俺の骨は甲子園のマウンドにまいてほしい」”. 週刊朝日. (2013年6月23日). http://dot.asahi.com/wa/2013062000026.html 2013年6月23日閲覧。 
  33. ^ 涙なくしては読めない、伝説の投手・江夏豊の「奇跡の引退試合」
  34. ^ 江夏豊 広岡監督に「なんで痛風なの」で2軍落ち?
  35. ^ 球界に大きな影響を与えた広岡達朗-元・名物番記者が語るプロ野球ちょっと裏話-
  36. ^ ベースボール・マガジン社「日本プロ野球トレード大鑑」でのインタビュー。『左腕の誇り 江夏豊自伝』でも同趣旨の発言をおこなっている。
  37. ^ What is a Non-roster Invite (NRI)? - Glossary - MLB.com
  38. ^ Yutaka Entasu, Milwaukee Brewer - Japanese Baseball Cards
  39. ^ Milwaukee Brewers Uniform Numbers - Baseball-Reference.com
  40. ^ a b c “野球、海を渡る-ニッポン人脈記”. 朝日新聞. (2006年1月23日). http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200601230194.html 2020年7月21日閲覧。 
  41. ^ a b c d e 横浜地方裁判所平成5年(わ)第555号覚せい剤取締法違反被告事件、判例タイムズ829号276-277頁
  42. ^ https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/05/18/kiji/K20160518012609100.html
  43. ^ a b http://diamond.jp/articles/-/86006?page=2
  44. ^ 阪神本拠開幕戦で江夏&田淵“黄金バッテリー”復活 - 野球”. 日刊スポーツ (2017年3月17日). 2017年7月9日閲覧。
  45. ^ 文藝春秋 2005年7月号
  46. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号24-25ページ「江夏の21球は本当だったんだと強烈な印象を受けた 伊東勤が語る最高峰の投球術」
  47. ^ エースの資格110-113ページ「王さんだけには通用した「曲がらない」カーブ」
  48. ^ 別冊ベースボール「よみがえる1980年代のプロ野球 PART8 1982年編」54頁(原出典:週刊ベースボール1982年10月18日号 立川談志との対談記事)
  49. ^ 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。
  50. ^ 達成者は「江夏豊」ともうひとりだけ… 「全球団に勝利」「全球団に敗戦」した投手 - デイリー新潮(2020年8月8日)

関連項目編集

外部リンク編集